第56話 時に備えて
朝、また宗継は、目覚ましが鳴る前に起きた。
起きる理由は、もう忘れた。ただ、起きてしまう。
台所に立つ。やかんに水を入れ、火をつける。
湯が沸くまでの時間を、宗継は何も考えずに過ごした。
考えない、というより、考える対象が定まらない。
湯呑みは、一つ。
それが自然になっていることに、もう驚かない。
事務所に出る。鍵を開ける。問題ない。
午前の依頼も、処理できた。期待は重かったが、言葉は届いた。
ただ、終わったあと、宗継は自分の手を見た。
少し、遅い。以前より、わずかに。
依頼人は気づかない。だが宗継には分かる。
昼、外に出る。
日差しが強い。夏が近い。
宗継は、作業用の手袋を売っている店の前で足を止めた。
革。厚み。縫い目。
宗継は、値札を見てから、店に入らずにその場を離れた。
午後、記録を整理する。
静久の字で書かれたメモを、何度も読み返す。
夕方、神社本庁から電話が入った。簡潔だった。
「状況は安定しています。問題ありません」
それだけだった。
戻るとも、戻らないとも言わない。
宗継は、礼を言って電話を切った。
安定という言葉は「このままが最善」を意味するのだろう。
帰宅。
宗継は、机に紙を広げた。作業として、必要なものを書き出す。
革。なめし。縫製。サイズ。
皮は、そのままでは使えない。まず水に浸す。
血と脂を落とす。冷たい水の中で、皮は重く沈む。
急げば、腐る。焦れば、臭いが残る。
指先に、ぬめりが残らなくなるまで水に浸す
次に、削ぐ。刃物を寝かせ、内側から、少しずつ。
筋。脂。薄く残る肉。
力を入れすぎれば、破れる。入れなければ、残る。
一定の角度を保つ必要がある。
それから灰を使う。水に溶かし、工程を経た皮を沈める。
毛を抜くための工程だ。
時間が経つと、毛は簡単に抜けるようになる。
指で引けば、抵抗なく離れる。それを、一束ずつ処理する。
再び、水。灰を落とす。残れば、皮は硬くなる。
落としすぎれば、脆くなる。水が濁らなくなるまで。
なめし。油を使う。少しずつ、擦り込む。掌で、温度を伝える。
油は、皮の中に入る。繊維が、ほぐれる。繰り返す。
乾かしては、揉む。また、油を足す。
この工程が、一番時間がかかる。
そして乾燥。直射日光は避ける。風だけを通す。
吊るして、待つ。皮は、次第に形を変える。
生きていたときの面影は、ここで消える。
——知っている。
宗継は、自分の手を紙の上に置いた。
指の長さ。掌の幅。それを測る。数字を書く。
それが、何のためなのかを、独り言でも言わない。
聞かれているかも、知れないから。
夜。
湯を沸かす。湯呑みは、一つ。
宗継は、湯を注ぎながら、また掌を見た。
ずっと、素手だった。それでも、ここまで来た。
だが、これからもそうでいいのかどうかは、分からない。
湯呑みを持つ。温かい。
宗継は、その温度を確かめるように、しばらく動かなかった。
準備は、まだ始まったばかりだった。
ただ、終わりの形だけが、
静かに、宗継の方を向き始めていた。
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