第55話 赦し、整列
伊勢の森に入った瞬間、静久は、
胸の奥がほどけるのを、強く感じた。
あの縄が、音もなく緩んでいく。
最初からそこにあった力が、正しい位置に戻るだけだった。
呼吸が、深くなる。
息を吸うたび、胸の内側に余白が生まれる。
苦しさはない。代わりに、懐かしさがあった。
ここだ、と身体が言っていた。
白衣に袖を通すとき、手が迷わなかった。
巫女としての作法。歩き方。言葉の選び方。
誰かに教えられた記憶はない。
だが、失われていたわけでもなかった。
静久は、ただ、戻っているのだと理解した。
最初の問題は、簡単なものだった。
祝詞の順が、わずかに乱れている。
祭具の配置が、ほんの数寸ずれている。
それだけで、場の気配が澱む。
静久は、言葉を足さない。音を大きくしない。
ただ、一歩動き、手を伸ばす。
そして、整う。
それを見ていた者が、息を呑んだ。
「……今のは」
「手順が、少し、ずれておりました」
次の問題は、もう少し複雑だった。
人の期待が、場に溜まっている。
誰かが、祈りすぎている。
良かれと思って。期待が、強すぎた。
静久は、膝をついた。
祝詞ではなく、言葉でもなく、手を地に触れさせる。
期待が、解けた。
静久には、はっきりと分かった。
仕事の精度が、戻っている。
その日の終わり、静久は一人になった。
境内の奥。人の気配が消えた場所。
胸に手を当てる。
縄は、まだある。だが、もう締め付けはない。
静久は、はっきりと理解した。自分は、戻る過程にある。
それは赦し。祝福であり、別れでもある。
それは、罰が終わったことを意味しない。
役割という別の罰に、戻ることだ。
七人姉妹の末子。
人の営みに寄り添うが、直接には触れない存在。
静久は、宗継のことを思った。
本当は、農業に戻りたい人。土に触れ、季節を読む人。
これまでは、司祭に縛られていた。
だが、赦された。
もし、自分がこの役割を受け入れなければ、
宗継は、ずっと役割に縛られ続けるだろう。
静久は、静かに息を吐いた。
それならば。
宗継を、自由にする。地に返す。
自分が、戻ることで。彼が、土を耕せるなら。
それが、いちばん正しい。
静久は、白衣の袖を整えた。
胸の縄に、そっと意識を向ける。
まだ、選択は終わっていない。
だが、願いは定まった。
宗継が、幸福であること。それだけを、静久は祈る。
その祈り。その期待が、
自分を、境界の向こうに連れ出すのだと知りながら。
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