第54話 真空
朝、宗継は目覚ましが鳴る前に起きた。
台所に立つ。
やかんに水を入れ、火にかける。
身体が覚えている。
以前は、ここで声がした。
「少し多いですね」
あるいは、
「火が強いです」
今日は、何も言われない。
それでも宗継は、火を弱めた。
湯が沸く音だけが、台所にある。
湯呑みを二つ棚から出しかけて、一つにする。
机の上には、書類が積まれている。
依頼人のメモ、棺の記録、処理の手順。
静久は、朝、ここで紙の端を揃えていた。
理由は分からないが「そうした方がいい」と言った。
今日は、ずれたままだ。
宗継は、それを直さなかった。
事務所に出る。
鍵を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
視界が広い。
椅子が、そこにあるべきものを際立たせる。
宗継は、その椅子の場所を変えようとして、やめた。
午前中の依頼は、軽かった。
期待は絡まっていたが、複雑ではない。
宗継は、言葉を選び、糸を解く。
問題なく、終わる。
終わったあと、手を洗った。
必要以上に、長く。
水の音が止んでから、しばらく蛇口を見ていた。
昼。
弁当を買いに出る。
何を食べるか、静久はあまり迷わなかった。
量よりも、匂いを気にしていた。
宗継は、同じ弁当を二つ手に取ってから、一つ戻した。
事務所に戻り、机で食べる。
味は、分かる。不味くはない。
だが、食べ終わるのがいつもより早い。
午後、棺の記録を整理する。
静久の字で書かれた注意書きが目に入る。
『ここは、急がない』『判断は、言葉の後』
宗継は、目を閉じた。
修正しない。削除もしない。
ただ、そのままにする。
夕方、事務所を閉める。
鍵をかけて、振り返る。
それが、期待であることに気づく。
帰宅。
玄関で靴を揃える。スペースが余っている。
夜。
湯を沸かす。
今度は、最初から湯呑みを一つだけ出した。
手が、そう動いた。
宗継は、そのことに少し遅れて気づいた。
湯呑みに茶を注ぎ、机に置く。
向かい側には、何もない。
棺と糸のことを考える。
考えられる。一人でも、仕事はできる。
宗継は、自分の手を見る。素手。
ずっと、素手だった。
宗継は、湯呑みに口をつける。
少し、冷めている。
そのまま、飲んだ。
空白は、音を立てない。
ただ、そこにあり続ける。
宗継は、それを埋めようとはしなかった。
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