第52話 境界と光
その夜、静久は早く休んだ。
あの縄の締め付けで、呼吸がきつくなっている。
静久はそれで疲れやすく、眠りも浅くなっていた。
宗継は、アパートの灯りを落とし、
一人、ベランダにいた。
風が、少し湿っている。夏が近づいている。
「……時間が、もうない」
足音もなく、狐が隣に座った。
宗継は驚かない。
「なんの時間ですか?」
狐は、夜空を見上げた。星は、まばらだ。
「わしが神を降りたとき、お主、光をみたはずじゃ」
「覚えております」
狐は、前足を揃えた。
「あれは、境界を渡るときの光」
狐は、目を細める。
「普通は、戻れなくなる光……」
宗継は、息を吸った。
「……静久が、渡るのですか?」
狐は、否定しない。肯定もしない。
「同じではない。だが、似ておる」
狐は、しばらく黙っていた。
それから、唐突に言った。
「期待がもっとも集まる日、この夏の夜」
「わしは、死ぬ」
宗継は、言葉の意味を理解するより先に、
身体が強張るのを感じた。
「……ご冗談、ですよね?」
狐は、宗継を見ない。
「決まっておることじゃ」
声は、静かだった。
予言というより、予定の確認だった。
「わしの死体は、宇治橋の下に捨てられる」
宗継は、立ち上がりかけて、やめた。
拒否でも、怒りでもない。
ただ、身体が動いてしまう。
「そう決まっておる。誰も、気に留めぬ」
判断が追いつかない。
そして狐は、きっぱりと言った。
「わしの死体から、皮を剥げ」
狐は、ようやく宗継を見る。
その目は、驚くほど穏やかだった。
「その皮で、手袋を作れ」
宗継の喉が鳴った。
「何を、おっしゃって——」
「皮を剥ぎ、手袋を作れ」
狐は、淡々と続ける。
「その手袋であれば、あるいは……」
あの縄のことだ。
「……それを、僕が?」
「お前以外に、誰がおるか。たわけが」
狐は、当然のように言う。
「そなたに皮を渡すのは、二度目じゃ」
「覚えておらぬだろうが……」
宗継は、拳を握った。何かを言おうとする。
「静久には、言うな」
狐は、即座に遮った。
「知れば、選び直す。選び直せば、間に合わぬ」
宗継は、唇を噛む。
「……あなたは?」
「わしは、もう選んでおる。ずっと昔からの」
狐は、夜空を見上げる。
しばらく、二人は黙っていた。
風が、縁側の木を鳴らす。遠くで、電車の音がした。
「怖く……ないんですか?」
宗継が、ようやく聞いた。
狐は、少し考えてから答える。
「二度目と申しただろう。そなたとは、また会う」
「だがな」
一拍。
「このままでは、お主と静久は……」
「まあ、わしはそれでも構わんのじゃが」
宗継は、立ち上がり、深く頭を下げた。
「そなたは、そうではないであろう」
狐は、尻尾を一度振った。
「迷うな、宗継」
狐は、立ち上がる。
宗継が何かを言おうとした。
狐は、振り返らないまま、それを諫める。
「その言葉には、まだ早い」
狐の姿が、闇に溶ける。
宗継は、ベランダに残されたまま、
自分の手を見つめた。
あの縄を——。
お読みいただき、ありがとうございます。
嬉しいです。




