第51話 変わる関係
その朝、宗継は、目覚めてすぐ「静かだ」と思った。
何かが、待っている。そんな気がした。
宗継が台所で湯を沸かしていると、背後で布が擦れる音がした。
「おはようございます」
静久は、いつも通りの声だった。笑顔も、変わらない。
ただ、歩き方が少しだけ慎重な感じがする。
——糸が、増えている。
それらは、静久の背に集まっているように感じられた。
「静久、それ……」
そこまで言って、宗継は口を閉じた。
狐も遅れて現れた。いつもよりも、耳が立っている。
何かを警戒している感じがする。
「今日は……?」
宗継が聞くと、静久は頷いた。
「葬りの依頼が一件、入っています」
「重そうですか?」
「……わかりません。実際にお会いしてみないと」
静久の返答の速度が、ほんのわずかに遅い。
宗継は、その遅れを見逃さなかった。
だが問い返さない。
問い返せば、きっと言えないことに触れてしまう。
事務所に着くと、依頼人はすでに事務所の外で待っていた。
袖口が擦り切れている。髪も乱れている。
整える余裕もなかったのだろう。
年齢は三十代半ば。期待に応え続けてきた疲れが見える。
「九條先生……で、合ってますか」
「はい」
依頼人は深く頭を下げた。
「すみません。こういう場所は初めてで」
「大丈夫です。座ってください」
宗継が促すと、依頼人は椅子に浅く腰を下ろした。
腰を下ろしながら、目線が棺で止まっている。
「あまり見ないでください。危険です」
それから宗継は、いつも通りに聞く。
「期待、ですね」
「……そう、なんだと思います」
依頼人は、言葉を探すように唇を噛んだ。
「このままだと、壊れるって……」
「何が、ですか?」
「僕が」
短い答え。
静久は、黙っている。手は膝の上に置かれている。
いつもなら、もう少し早い段階で糸を見る。
宗継は、そこにも違和感を感じた。
狐は、依頼人の足元を見ている。
その視線は、定まらない。
依頼人は言った。
「期待されているんです」
「誰にですか?」
「……みんなに」
その「みんな」が、宗継には見えない。
だが静久には見える。
そして狐にも、きっと見えている。
「会社の人。家族。取引先。あと……」
依頼人は一度、目を閉じた。
「あと、僕自身からも」
宗継は頷いた。よくあることだ。
自分に過度な期待する人は、結び目が増える。
静久が、ようやく顔を上げた。
「他の棺は、見えますか?」
依頼人は、首を横に振った。
「見えません。この棺だけです」
静久は、少しだけ安堵したように見えた。
宗継は、それが何を意味するのか分からない。
分からないことが増えている。
静久は、依頼人の胸のあたりを見た。
視線が、そこに固定される。
依頼人は、自分のことを話し続けた。
転職して、役職がついたこと。成果が出ないこと。
でも、周囲は「あなたならできる」と言うこと。
それが嬉しくて、努力してきたこと。
努力できたのは、期待のおかげだったこと。
「……でも」
依頼人の声が、少し掠れた。
「最近、期待されるのがとても辛くて」
静久の指が、膝の上でわずかに動いた。
狐の耳が、さらに立つ。
静久が、糸に触れようとしていない。
宗継は、目だけで静久に問いかけた。
そのとき。宗継は、見た。
太い、もはや糸とは呼べない縄が、
静久の首の後ろから、棺につながっている。
宗継は、思わず立ち上がりかけた。
視線が、縄に吸い寄せられる。
静久の顔色が変わった。そして、視線を落とす。
見られてはいけないものを、見られた人の動き。
静久は、宗継を見ない。
ただ、依頼人を見ている。
「……糸ですが、絡まっています」
「結び目を、解きます」
声が、低い。迷いはない。
宗継は、少しだけ安心した。
だが同時に、胸の奥が冷えた気がした。
——あの縄は、解けるのか?
静久は、手順を始めた。
いつも通りのはずだった。
しかし、手が止まる。目に涙が溜まっていた。
依頼人は、怪訝な顔をしている。
「あの……先生?」
依頼人が、宗継の方を見る。
宗継は、笑ってみせた。
「大丈夫です」
嘘ではない。依頼人にとっては。
だが、宗継の背中に汗が浮いた。
静久は、宗継を見た。
助けを求める目だった。
でも、言葉はない。言えないのだ。
狐が、静久の足元に寄った。
何かを支えるように、そこに座る。
宗継は、息を整え、静久に目配せをした。
「続けます」
そう言って、宗継が手順に入った。
火を灯し、言葉を、選ぶ。
いつもより手早いが、正しい手順。
「あなたの言葉で、送ってあげてください」
依頼人は、目を閉じた。
唇が動く。何かを祈るように。
宗継は、その様子を見ながら、
縄の気配を背中で感じていた。
見てはいけない。
しかし、身体が形を覚えてしまっている。
結びそのもの。静久の自由を奪う縄。
火は、静かに燃えた。依頼人の棺は、消えた。
依頼人の顔色が戻り、肩が落ちる。
依頼人が帰ったあと、宗継は、それを聞こうとした。
だが、言葉にならない。
静久が言えないことを、宗継は知っている。
狐も、言えない。
宗継は別の言い方を選んだ。
「……このままでは、いられませんね」
静久は、少しだけ目を細めた。
狐は、尻尾を揺らした。
「僕たちが、選んだことに」
「とても大きな力が、反応した」
宗継が言うと、静久は即座に断定を避けた。
「……かもしれません」
それだけ。それ以上は、ない。
宗継は、笑ってみせた。
笑える状況ではないのに、笑ってしまう。
冗談の形にしないと、言えなかった。
「ちゃんと働かないと、怒られますね」
静久は、ハッとして宗継を見た。その表情から、
宗継は「怒られる」ことが冗談ではないと察する。
「僕と静久が一緒にいることに、怒っている」
宗継の声は、
独り言として事務所の空気に溶けた。
お読みいただき、ありがとうございます。




