第49話 別れ、再び。
静久が、伊勢へ向かう日。
朝は、静かだった。
空は澄んでいて、特別なことは何も起きていない。
だからこそ、これが別れであるという実感が、
宗継には湧かない。
荷物は少ない。
桐の箱は、すでに送ってある。
身の回りのものも、静久は全て伊勢に送っている。
狐は、静久の足元にいる。狐は、静久について行く。
首輪は緩く、リードも張っていない。
「もう……行くんですね」
宗継が言った。
確認の言葉であって、
引き止めるつもりは、なかった。
「はい」
静久は、笑った。いつも通りの顔に見えた。
だが、この笑顔が。宗継にむけるこの笑顔が、
今日で終わることを、静久だけが覚悟している。
言えない。何も。
伊勢が何を意味するのか。
自分が、どこへ戻ろうとしているのか。
そして、それが何を引き裂くのか。
物語が、自分たちの関係の正体だということを。
言葉にしてしまえば、命令になる。縛りになる。
そしてこの真実を言葉にすることは、禁じられている。
それに。真実を伝えてしまえば。
宗継の自由を、自分の解釈で奪うことになる。
だから静久は、どうしても、何も言えなかった。
「向こうでも、忙しくなりそうですね」
宗継が、探るように言う。
でも、それ以上は踏み込まない。踏み込めない。
「ええ」
静久は、頷いた。
狐も、静かに尻尾を揺らす。
知っている。でも、語れない。
時間だけが、過ぎていく。
宗継の胸の奥で、棺ではない何かが、強く軋んだ。
理由は分からない。
ただ、これは——だめだとだけ、分かる。
言葉を探す。けれど、見つからない。
引き止める理由が、見つからない。
別れる理由は、ない。引き止める理由も。
それでも、宗継の身体だけが、勝手に動いた。
「……だめだ」
自分の声に、宗継自身が驚く。
「これは、絶対にだめだ」
一歩、踏み出す。理屈ではない。
覚悟でもない。ただ、純粋で深い拒絶だった。
「俺と——」
一瞬、言葉が詰まる。でも、止められない。
止めては、いけない。
「俺と、一緒にいるんだ。静久」
それは、願いではなかった。相談でも、提案でもなかった。
命令。
静久は、息を呑んだ。一瞬。ほんの一瞬だけ。
そして——笑う。
静久の目に、涙が溢れた。
止めようともせず、隠そうともせず。
「……はい。仰せのままに」
静久の声が、震える。それから冗談っぽく言った。
「ご命令……ですからね」
そう言って、静久は、はっきりと笑い、頷いた。
狐が、尻尾を大きく振った。嬉しそうに。
静久は、まだ泣いていた。
宗継は、自分が何を言ったのか、まだ分かっていない。
ただ静久が行かないという事実だけが、そこにある。
狐は、宗継の隣に座り直す。もう、どこにも行かない。
真実は語れない。
この関係が、どんな意味を持つかも、語れない。
それでも、静久は、笑っていた。狐は喜んでいた。
これが、いい。
そう思えたことが、何よりも恐ろしくて、
何よりも、嬉しかった。
終章の始まりです。よろしくお願いします。




