第43話 自分の選択
依頼人は、二十代前半。
彼の背は高く、体つきも整っている。
鍛えられた肩と胸は、いかにもアスリートらしい。
けれど椅子に腰かけた姿は、どこか縮こまって見えた。
身体が、自分のものではないような座り方だった。
「……時間。取ってもらって、すみません」
そう言ってから、彼は小さく息を吸った。
プロサッカー選手。
下部組織から昇格し、トップチームと契約した。
だが、彼の出場機会はほとんどない。
「結果が出ていないって言われると……」
彼は視線を落とした。
「その通りだと思っています」
「練習でも、試合でも……何かが足りていないんです」
宗継は黙って聞いている。
静久は、彼の足元の揺れに気づいた。
踵が床を探し、見つけられずにまた戻る。
「それでも」
彼は続けた。
「ここまで、頑張れて来れたのは……」
「みんなの期待のおかげなんです」
言い訳のようでもあり、
決めつけのようでもあった。
「『お前ならできる』って、みんなが——」
彼の棺が、軋む。
その音に、彼の身体は小さく跳ねる。
「棺……いま、鳴りましたよね?」
「見ないでください。危険です」
彼は、自分の棺から目を背ける。
呼吸を整えて、また彼が話し始めた。
「挫けそうになったときも、辞めたいって思ったときも」
「……みんなに期待してもらえたから、踏ん張れたんです」
静久には、見えていた。
彼の胸のあたり。絡まり合った糸。
太いものもある。細いものもある。
温かいものも、重たいものも。
彼を支え、守ってきた糸。
「だから」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「考えられないんです。サッカーを辞めるってことを」
拳が膝の上で固くなる。
「辞めたいわけじゃない。でも……」
喉が詰まる。
「続けたいって言い切るのも、違う気がする」
静久は、ほんの一瞬だけ宗継を見た。
宗継は、何も言わない。
相手の言葉が形になるのを待っている。
「もし」
彼は、絞り出すように言った。
「期待されなかったら。自分は、どうするんだろうって」
目が泳いだ。逃げ場を探すように、
机でも壁でもなく、空気のどこかを見る。
「それを考えると……怖くなるんです」
静久の視界で、糸がわずかに震えた。
引っ張られているのではない。引き戻されている。
「期待を裏切るかもしれない」
「無駄にしてきたかもしれない。そう思うと……」
彼は目を閉じた。
「考える前に……戻されるんです」
その瞬間、静久の視界が、ずれた。
今、語られている言葉とは、別のものが見える。
夜のグラウンド。照明は落とされている。誰もいない。
ユニフォームではない。練習着でもない。
ただ、普段着で立ち尽くしている。
足首に痛み。膝に違和感。
検査では「問題なし」と言われている。
ベンチにも入れない。理由は告げられない。
ただ、彼の名前は呼ばれない。
スマートフォンの画面。通知は多い。
けれど内容は、少ない。
『まだか』『期待してる』『ここからだろ』
善意の言葉ばかり。
逃げ場がない。
部屋に戻る。洗濯物が乾ききらない匂い。
鏡に映る身体は、衰えていない。
焦り。罪悪感。自己嫌悪。
静久はそこで、視線をこの場に戻した。
彼はまだ、言葉を選んでいた。
自分で耐えられる範囲だけを語っている。
静久は何も言わなかった。
彼がまだ自分で言えていないことを、
代わりに言葉にしてしまえば、きっと崩れる。
宗継が、そこで初めて口を開いた。
「引退を決めるためではありません」
彼はゆっくり顔を上げた。
驚いたというより、確認する感じだった。
「はい。それは……違います」
「続けるためでも、ありません」
宗継の声は静かだった。
「あなたが、どちらを選んでも」
「それがあなた自身の判断であるために」
一拍。
「期待を、葬ります」
彼はしばらく考え込んだ。
その沈黙は、決意の準備ではなく、
自分の中にある声を、聞き分けるための沈黙。
「……お願いします」
この棺は、考えようとした瞬間に、それを止める。
その力が、彼の胸の前で絡まり続けてきた。
火が入る。
糸が一本、また一本と燃えていく。
しかし、彼の感謝まで消えるわけではない。
燭台の炎が、大きく音を立てて輝いた。
「最後に。あなたの言葉で、送ってあげてください」
彼は長く息を吐いた。
息の終わりで、肩が少し落ちる。
「俺は、サッカーが好きです」
小さな声だった。けれど、はっきりしていた。
それから彼は、かすかに笑った。
笑うつもりはなかったのに、笑ってしまった。
「……静かになりました」
続けることでも、辞めることでもない。
考えられること。選べるという実感。
数日後。
宗継のもとに短いメールが届いた。
依頼人の名前。お礼。
『日本代表候補に、選出されました』
宗継は画面を閉じずに、しばらくこの一文を見ていた。
不審に思った静久が、これを横から覗く。
「……これは、良いことですか?」
静久が言う。
「わかりません」
宗継は答えた。
続けるかどうかは、まだ決まっていない。
引退を選ぶ可能性も、消えてはいない。
だが彼はもう、自分で決められる。
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