第39話 距離
雨が、細く降っていた。
濡れるほどではないが、外に出ると、肩に湿気が残る。
男性は、傘を畳みながら言った。
「……この辺り、久しぶりに来ました」
五十代手前。
背筋は伸びているが、どこか力を抜いた立ち方だった。
顔立ちは、見覚えがある。主演ではない。
だが、画面の端にいると、安心する顔。
「子役から、ずっとやってます」
「今は……ちょい役ですが」
宗継は、何も言わない。
静久は、男性の手元を見ていた。
指は、きれいだった。
包丁を握る手ではない。
「仕事は、あります。ありがたいことに」
男性は、少し間を置いた。
「……本当は、飲食の仕事に興味があります」
静久の胸が、わずかに反応した。
「料理をする側に行きたいんです」
「店を持つとか、成功するとか」
「そういうのじゃない」
男性は、言葉を選ぶ。
「厨房に、入りたいんです。料理を出して……」
「『美味しかった』って、言ってもらえたら」
「それで、いい」
宗継は、男性を見る。
「やれば、いいのでは?」
男性は、首を振った。
「……できませんでした。一応、俳優ですから……」
「バイト、って言いづらい」
苦笑が、浮かぶ。
「親も、昔からのファンも」
「まだ、期待してくれています」
静久には、見えた。
男性の背後に、太くはない糸。数も多くない。
だが、結び目が多い。
ほどけないまま、距離を保っている。
「飲食で、成功しなくてもいいんです」
「バイトでも、構わない。でも……」
男性は、息を吸った。
「挑戦したって言える自分で、いたいんです」
その言葉に、宗継は、視線を落とした。
「もう、決まっていることは?」
「調理師免許の、専門学校」
「入学金と卒業までの学費を払いました」
男性は、少し照れたように言う。
「本当に行くかどうか。ただ、それだけなんです」
静久の視界が、揺れた。
男性の糸は、胸の奥には食い込んでいない。
肩のあたりで、重なっているだけだ。
静久は、理解した。距離が、あると。
宗継が、ゆっくりと口を開いた。
「その期待は、棺になっています」
「ここでは、見えているはずです」
男性は、驚かなかった。
むしろ、安心したように息を吐いた。
「……やっぱり。これですね」
「葬りますか?」
宗継の問いは、確認だった。
「お願いします」
男性は、即答した。
積み重ねられた時間の分だけ、角の取れた棺だった。
宗継は、言葉を選んだ。
「これは……俳優としてのあなたを葬るものではありません」
男性は、黙って聞いている。
「失敗を、葬るものでもない」
静久は、男性の背後の糸が、
少しずつ、男性から距離を取るのを見ていた。
「挑戦しない、という期待を葬ります」
火が、灯る。
静久は、胸の奥に、熱を感じた。
これは、葬っていい。
棺が、静かに燃える。
男性は、深く頭を下げた。
「厨房に……行きます」
宗継は、頷いた。
「どうぞ。あなたの自由です」
静久は、男性が去ってから言った。
「……同じじゃない。同じ棺は、ない」
ぽつりと、漏れる。
宗継は、聞かなかった。
聞かないことで、距離を保った。
静久は、窓の外を見る。
雨は、止んでいた。
まだ、遠い。
ありがとうございます。嬉しいです。




