第38話 近づいている
その日、事務所には、甘い匂いが残っていた。
香水ではない。粉と油と、肌に触れる前の道具の匂いだ。
宗継は、床に落ちた小さなラメを踏まないように歩いた。
机の上には、見慣れないものが並んでいた。
細い刷毛。色の違う筆。半透明のケースに収められた、無数の色。
それらを持ち込んだ女性は、立ったまま、鞄を抱えていた。
椅子に座るよう促されても、一度、首を振った。
「……すぐ、帰りますから」
三十代半ば。
静久が気に入ったようで、本題を忘れたまま、口紅について聞いた。
それから自分の鞄を開け、静久にメイクを施し始めた。
静久も関心があるようで、彼女の説明を喜んでいる。
しばらくして。
「あ、私……。メイクアップ・アーティストなんです」
「現場では、問題を感じていません」
「楽しく、仕事をしています」
宗継は、うなずきも、合図もしなかった。
「仕上がりも、時間も」
「クライアントからは、評価されています」
言葉は整っている。
だが、順番が、どこかおかしい。
「でも」
女性は、鞄の口を少しだけ開けた。
中から、スマートフォンを取り出す。
「……これを、見てしまうんです」
画面を伏せたまま、言った。
「コメントです」
「直接、私に向けられたものじゃありません」
「でも……」
指が、画面の端をなぞる。
「『今回、濃くない?』」
「『前のメイクの方が好きだった』」
「そういう……」
宗継は、その画面を見なかった。
「そういうのが、頭から離れなくなるんです」
「次の現場で、手が、迷います。悔しいですけど」
女性は、笑った。
笑顔の形だけを作る、癖のある笑い方だった。
「おかしいですよね」
「クライアントのファンの人たちの期待なんて」
「私が、受け取る必要なんてない」
静久は、その言葉を聞いた瞬間、
見えてしまった。
以前にも、見えたことはあった。
だが——あれは、外側だった。
光が、揺れている。強すぎて、色を失った光。
そこに、人がいた。少女だった。
頬がこけ、目だけが異様に澄んでいる。
手には、ペンライト。
これは、現場ではない。ステージでも、撮影でもない。
狭い部屋。壁に貼られた写真。切り抜かれた記事。
同じ名前が、繰り返される。
少女は、笑っていた。笑いながら、咳をしている。
机の上には、未開封の薬。
正確な理由はわからない。
ただ、少女にとって、この活動だけが希望だった。
静久の胸が、締めつけられる。
静久は、生まれて初めて、自分以外の他人の糸が見えた。
無数の糸。俳優へ。モデルへ。
そして糸は——ファンたちの胸に、深く、食い込んでいる。
静久は、思わず息を吸った。
視界が、元に戻る。
女性は、まだ話している。
宗継は、それを静かに聞いている。
それは、祈りに、よく似ていた。
だが——神に、届いてはいなかった。
静久は、依頼人の女性の背後にも、細い線が見えた。
しかし、それらは依頼人の棺には、つながっていない。
だが、無数にある。
絡まり、ほどけず、同じ場所を巡っている。
「眠れなくて」
「朝、鏡で自分の顔を見るのが怖くなるんです」
宗継が、静かに口を開いた。
「その言葉は、誰の声ですか?」
女性は、即答しなかった。
「……誰でも、ないです」
宗継は、少しだけ考えた。
「自分自身が、自分の技術を期待する声のようです」
女性の眉が、わずかに動く。
「あなたに向けられた、ファンの期待ではない」
宗継は、机の上の色を、一つ指さした。
「その色が、誰かに似合うかどうかは」
「あなたが、決める。これからも」
女性は、しばらく黙っていた。
それから、スマートフォンを鞄に戻す。
「……分けて、考えていいんですね」
「はい」
宗継は、迷わなかった。
「仕事と、あなたを」
女性は、ゆっくりと息を吐いた。
その息は、さっきより軽い。
「また、怖くなったら……」
「ここに来ても、いいですか?」
「もちろん」
女性は、深く頭を下げた。
立ち去るとき、床に落ちていたラメを、一つ拾い上げる。
「……すみません。散らかしてしまって」
扉が閉まる。
甘い匂いだけが、残った。
静久は、床に残されたラメを見ていた。
胸の奥が、微かに熱い。
見えてしまった。
狐が、低く息を吐いてから言った。
「光が、戻る」
静久は、答えなかった。
答えられなかった。
窓の外で、別の光がかすかに動く。
何かが、近づいている。
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