第37話 棺にしたくない。
朝の光は、昨日と同じように薄かった。
宗継は封筒の角を揃え、紐の癖を直し、棚の背を指でなぞる。
静久は湯を沸かし、湯呑みを並べ、机の端を拭く。
二つの棺は、そこにある。
狐は丸まっていた。
首輪の金具が、朝の微かな明るさを返す。
この日も、依頼人が来る予定はない。
予約なし、飛び込みの依頼人も来ない気がした。
そんな事務所の朝。
扉の前で、靴音が一つ止まった。
呼び鈴が鳴り、静久が対応する。
「メール便です」
私設私書箱からの転送だった。
差出人は、宗継の兄。
宗継は封を切らず、封の角を指で撫でた。
静久が、何も言わずに湯呑みを置く。
封を切る。
中の紙は一枚。短い。
『妻が、宗継に会いたいと言っている』
それだけだった。
宗継は、文面を読み返した。
恐れがない。距離もない。
兄らしい慎重さもない。
誘い、なのだろう。
宗継は息を吐いた。
吐いた息が、茶の湯気に紛れる。
静久は、宗継の手元を見ないまま問う。
「……何か、難しいことでしょうか?」
静久の問いは、いつも遠回りだ。
「兄からです」
宗継は紙を折り、封筒に戻した。
「兄の……奥様が」
宗継はそこで言葉を止めた。
狐が、尻尾の先だけを動かした。
宗継は、狐を見ないまま続ける。
「僕に、会いたいと言っています」
静久は湯呑みの縁を指でなぞった。
「そうですか」
それだけ。
宗継は、その返事の薄さに救われた。
喜びも、同情も、祝福もない。
選べるという事実だけが、そこに置かれた。
狐が、低く喉を鳴らした。
——元神が、なにかお話になる?
だが狐は、話さない。
しかしその沈黙は、昨日と違っていた。
苦しさを伴っていない。
静久が自分の湯呑みに湯を注ぐ。
湯気が、ゆっくりと立ち上がる。
狐は窓の外を見た。
ほんの一瞬。確かめるように。
——何かが、変わった?
宗継は視線を机へ戻し、木目を見た。
狐が、ぽつりと言った。
「そなたらは、もう、縛られてはいない」
ここで狐は一度、口を閉じた。
「すまない、これ以上は言えない」
久しぶりに狐の声を聞いた。
宗継と静久が思わず顔を見合わせる。
——これまでは、縛られていた?
宗継は、紙をもう一度、指で押さえた。
確かなことが、ある。
兄夫婦に会えないという縛り、そして
実家に帰れないという縛りが、消えたことだ。
静久が、落ち着いた声で言う。
「行くんですか?」
宗継は答えなかった。
静久は、続けない。
宗継の答えを、待たない。
待たないことで、選択を急がせない。
狐が、言った。
「この仕事を、続けてもいい」
宗継は、わずかに眉を動かした。
狐は、それ以上を言わない。
言える範囲を守っている。
——葬る仕事を続けてもいい。続けなくても、いい。
静久が、小さく息を吐いた。
「私も、着いていっていいですか?」
宗継は頷かなかった。
静久は湯呑みを持ち上げ、口をつけずに置いた。
それから、長い沈黙があった。
「私も、着いていっていいですか?」
今度は、静久の声がわずかに掠れた。
——静久の言葉を、棺にしたくない。
宗継は立ち上がり、二つの棺の前に立った。
「もちろんです。静久さんも、来てください」
急に、静久の顎が上がる。
それから静久は、宗継に微笑を向けた。
選べるということは、重い。
棺は、手順がある。
選択には、手順がない。
第4章の始まりです。
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