第36話 黙る狐、試される二人
その日は、誰も来なかった。
宗継は湯を沸かし、湯呑みを洗い、卓の上を拭いた。
静久は書類の端を揃え、封筒の角を整え、棚の埃を払った。
宗継と静久、二人の棺が並んでいる。
それぞれが別の期待で、同じ部屋の空気を占めている。
静久は湯気の立つ音を聞きながら、窓の方を見た。
——以前の狐なら、何か言いそうなものだ。
皮肉の一つ。小さな冗談。
あるいは、どうでもいい話。
しかし最近の狐は、何も言わない。
丸まっている。目は開いている。
宗継が動けば目線を向け、静久が立てた音にも反応する。
だが、口を開かない。
静久は湯呑みを一つだけ卓に置き、もう一つをそっと引っ込めた。
来客がないと分かっていても、手はいつもの癖をなぞる。
狐が、尻尾の先だけ動かした。
静久は、狐を見ない。
宗継も、狐を見ない。
宗継は棺の列の前を歩き、止まった。
そこに、二つある。変わらない。
なのに、今日は息がしづらい。
——やはり、見られている。
周囲に、他人の気配はない。
だが、確かに。
宗継は、その感覚を言葉にしなかった。
言葉にした瞬間、形になる。
形になれば、棺になりそうな、そんな期待。
——自分は、誰に、何を期待している?
静久が、湯呑みの縁を指でなぞった。
「最近、増えましたね」
棺とつながる、糸のことではない。
静久の言葉は、いつも遠回りだ。
宗継は、短く言う。
「増えて……います」
それが何かは、言わない。
狐は、丸まったまま、目を閉じた。
眠っているふり。
——誰に対して?
宗継は、狐の首元の輪を見た。
革の擦れ。金具の傷。
それがいつからあるのか、宗継は知らない。
静久は、ふと言った。
「助けになりたくても……」
「助けられないことってありますよね」
宗継は、丸まった雑巾の端を、そっと伸ばした。
「あります」
狐の耳が、わずかに動いた。
静久は続ける。
「言葉にしたら、壊れる」
宗継は、頷かなかった。
否定もしなかった。
狐は、まだ黙っている。
宗継は立ち上がり、卓に戻った。
静久が、湯を注ぐ。
湯気が、ゆっくりと立ち上がる。
狐は、その湯気を見ている。
いつもなら、狐は外を見る。
窓の向こうを、一度は確かめる。
それを、狐はしない。できない。
宗継は、胸の奥で小さく息を吐いた。
第3章、これで終わりになります。
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