第30話 ただの、夕食
アパートの扉が、軽く響いた。
宗継が、靴を脱いで上がる。
いつもと同じ動作なのに、床板の冷たさが少し違って感じられた。
中は静かだった。
畳に落ちる光は薄い。窓の外は、もう夕方の色に寄っている。
狐は、部屋の隅で丸くなっていた。首輪の金具が、わずかに光る。
静久は、台所にいた。
炊き上がった米の匂いと、出汁の香りがしている。
静久は、宗継の気配に気づいて振り返る。
「宗継さん、おかえりなさい」
いつもより、声のトーンがわずかに高い。
「……ただいま」
宗継の緊張が、畳に溶ける。
静久は、宗継の手元を見る。土産の袋。
宗継は、静久の目線を追わない。
視線が棺を探す癖を、途中で止める。
棺は、二つある。
宗継の胸の奥には、いつも通り重いものが残っている。
静久もまた、似たようなものを背負う。
静久は、鍋の火を止めた。
宗継は、その手元を見て——何も言わない。
静久も、聞かない。
九條家のこと。関心、心配。
言葉にする気配すら、静久は出さない。
味噌を溶き入れ、椀に注ぎ、宗継の前に置いた。
「どうぞ、宗継さん」
「ありがとう」
宗継は箸を取る。
白い湯気の向こうで、静久の姿が揺れた。
味噌汁を一口。
いつもと同じはずなのに、少しだけ違う。
塩味の角が、ほんのわずかに立っている気がした。
宗継は、言わなかった。
静久も、気づいていないふりをした。
狐が、ふと顔を上げる。
鼻をひくつかせ、二人を見た。
宗継が視線を向けると、
狐は小さく喉を鳴らし、また丸くなる。
夕食は、静かに進んだ。
箸が茶碗に当たる音。
味噌汁の椀がテーブルに置かれる音。
それだけが、この部屋を満たす。
宗継は、食べながら、思い出していた。
書庫の埃の匂い。紙をめくる音。
慎重な兄の手つき。
そして——兄の棺。
木の硬い輪郭。引きずった跡。
それを「背負う」と言った兄の声。
葬らない棺も、ある。
葬るべきでない期待も、ある。
葬ってしまえば、楽になる。
それは、宗継の手の中にある。いつでもできる。
それでも兄は、首を横に振った。
罰だと。忘れたくないと。
宗継は、箸を置きかけて、止める。
椀の縁に触れた指先が、わずかに震えた。
静久は、宗継の手元を見た。だが、何も言わない。
宗継が、ふと息を吐く。その息が、湯気の中に混じる。
静久が、後片付けを始める。
水を流す音が、一定のリズムで続く。
宗継は、その背中を見ていた。
言わない。言えば、静久は受け止めてしまうだろう。
静久は、祈らない巫女。
祈らないからこそ、目の前の現実を逃がさない。
宗継は、その決断に助けられている。
同時に、そこへ重いものを投げることを、ためらう。
狐が、ゆっくりと起き上がった。
畳の上を、音もなく歩く。
宗継の足元に来て、鼻先で宗継の膝を軽く押した。
「……なんですか?」
宗継が小声で問う。
狐は、宗継を見上げる。
そして、静久のほうを一度だけ見る。
まるで、確かめるように。
狐は、最近はめったに声を出さない。
宗継は、眉をわずかに動かした。
「……大丈夫です、神様」
狐は、もう一度宗継の膝に鼻を押し当てる。
それは慰めとも、脅しとも感じられた。
静久が、そんな狐を見ている。
それから静久は、宗継の顔を見た。
「……お茶、淹れますか?」
「お願いします」
静久は、湯を沸かし始めた。
宗継は湯気の立つポットを見ながら、考えている。
——自分は、葬る側にいていいのだろうか?
自分は、棺に火を入れる人間だ。
言葉を添えて、糸をほどき、期待を燃やす。
そうして誰かを、軽くする。
だが、軽くすることが、正しいとは限らない。
宗継は、視線を落とす。
自分の手を見た。棺に触れる手だ。
静久が茶を置く。
その動作が普段通りで、少しだけ楽になる。
ただの、夕食。
狐が、また丸くなる。
首輪の金具が、微かに鳴る。
そのとき。
宗継のスマートフォンが鳴った。
アパートの部屋の空気が、たった一音で変わる。
宗継は、瞬きをしてから、ゆっくり立ち上がった。
静久は、茶碗を置いたまま、宗継を見る。
狐は、目だけを開ける。
宗継は、隣の部屋に行き、通話ボタンを押した。
「九條です」
受話器の向こうの声が、名を名乗る。
宗継の表情が、ほんのわずかに硬くなる。
そして、静久が、小さく息を吸った。
宗継は、言葉を選ぶ前に、もう一度だけ、狐を見た。
狐は、何も言わない。
宗継は、スマートフォンを握り直した。
お読みいただき、ありがとうございます。
嬉しいです。
よろしければ、リアクション、ご感想、☆評価など
お願いします。お願いします。




