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期待葬の司祭  作者: 八海クエ
第2章 結びをゆるめ、流す
23/60

第23話 棺、糸、自分

 宗継が湯呑みを置いたとき、

 少し遅れて、事務所の扉が閉まる音がした。


 呼び鈴は、鳴らなかった。


「……失礼します」


 入ってきたのは、若い女性だった。


 二十四歳なのだという。

 年齢を伝えてくるところに、きっと意味がある。

 実際には、年齢よりも、少しだけ子どもっぽく見えた。


 服装は地味。だが清潔で、きちんとしている。

 爪も、髪も、よく整えられていた。


——ずっと、目標に向かって一心不乱な人。


 だが、その努力が、どこへ向かっているのかは、

 本人にも、よく分からなくなっている。


 女性は席につくと、事務所を見回した。

 それからやっと自分の棺と糸に気づき、息を詰める。


「……これが、棺。初めて、見ました」


「はい」


「糸が……これ、大丈夫ですか?」


「はい」


 宗継は、淡々と返す。


「今日は、どのようなご用件で」


 そう問われて、女性は、少し困ったように笑った。


「……正直、分かりません」


 静久の視線が、糸に向く。


 棺から伸びる糸は、太い。

 それほど数は多くない。五本……程度か。

 全てが彼女の胸から、まっすぐ棺に伸びていた。


 棺からではない。むしろ

 この女性の方から糸が棺をとらえている。


「……ずっと医学部を、受験しています」


 女性は言った。


「六浪目です。ずっと勉強ばかり、しています」


 言い切りだった。


「実家が、クリニックをやっていて」

「一人っ子で」


 宗継は、黙って聞いている。


「小さい頃から」

「将来はクリニックを継ぐんだって、思ってました」


 清廉な棺が、軋む。

 糸が、わずかに揺れる。


「クリニックは、私の誇りです」


 一拍。


「医師になりたいと思ってます」


 熱がある。

 それは、本当のこと。


「人の役に立てる仕事で」

「ちゃんと勉強して、ちゃんとなって」


 言葉が、少し速くなる。


「でも……」


 そこで、止まる。


「どうしても……受からないんです」


 静かな声。


「最近は、私立の医学部も人気が高くて」

「かなり偏差値が高くないと、厳しいんです」


 現実的な分析。

 以前、聞いた話と被る。


「分かってます。甘くないって」

「医学部に合格する人の7割くらいが浪人生です」


 糸は、切れない。

 だが、少しずつ重さを増している。


「二年前です」


 女性は、ふと思い出すように言った。


「親友が、大学を卒業してすぐ結婚しました」


 宗継は、何も言わない。


「結婚式に行きました。すごく、幸せそうでした」


 それを、否定する気はない。


「最近、その子に、子どもができたって聞いて」


 女性は、少しだけ唇を噛んだ。


「……そのとき、私、思ったんです」

「私……何してるんだろうって」


 糸が、胸に深く食い込む。


「医師になりたい気持ちは、本当です」


 強い。  


「でも……」


 言葉が、続かない。


「それだけが、幸せじゃないってわかってます」


 静久は、糸を見る。


 これは。

 誰かに背負わされた期待ではない。

 親の期待、家の期待もある。

 しかし、自分から自分への期待が大きい。


 すべてが同じ場所、彼女の胸に結ばれていた。


 宗継は、しばらく沈黙したまま、棺を見つめた。


——あるべき自分。理想の自分。


 宗継は、即答できなかった。けれど。


「……葬ると」


 宗継は、慎重に言った。


「医師になる道を、手放すことになります」


 女性は、頷いた。


「でも」


 宗継は、続ける。


「葬らなければ、期待が、あなたの人生を占領する」


 糸が、張る。


「どちらも……」


 女性は、かすかに笑った。


「怖いですね」


 静久は、宗継を見る。

 その目線に、問いがあった。


 宗継は、首を振る。


「今日は、葬れません。私には、わかりかねます」


 静久は、何も言わなかった。


「これは」


 宗継は、棺から視線を離さずに言った。


「間違った期待ではない」

 

 狐が、尻尾を一度だけ揺らした。

 宗継が続ける。


「ただ、期待に応えることと、自分の人生を生きることは」

「きっと……別なのだと思います」


 誰に向けた言葉か、分からない。

 女性は、驚いたように宗継を見る。


 宗継も、動かない。


「……今日は」


 宗継は、ゆっくり言った。


「この期待を、持ち帰ってください」


 女性は、戸惑った表情を見せた。


「……持ち帰る、ですか」


「はい」


 宗継は、はっきり言う。


「まだ、葬るとか、葬らないとか」

「その段階ではありません」


 糸は、切れない。

 だが、ほんのわずか、緩んだ。


 急に、静久が割り込む。


「私には、あなたが立派な人に見えます」


 それは、慰めではなかった。


 女性は、深く息を吸った。


「……ちょっと、理解できました」

「医学部を諦めた時は、この棺を葬ってください」


 その声は、弱くなかった。


「でも、私は……まだ、頑張れる」


 女性が立ち上がる。


「……あと1年だけ、やってみます」


「はい」


 宗継は、迷いなく答えた。

 事務所の扉が閉まる。


 日の高さが下がり、室内の影が長くなっていた。


 宗継は、自分の棺を見つめたまま、動けなかった。

 静久も、やはり同様に動けない。


 二人の間に、言葉はない。


 けれど、その沈黙の中に、

 同じ問いが、確かにあった。


——期待に応えること。自分の人生を生きること。


 この二つを、同時に求めてはいけないのか?



ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。

次で、第2章が完結します。

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