第21話 残したままの糸
宗継が湯呑みを置いたとき、
合わせるように、向かいの椅子が小さな音を立てた。
湯気が、揺れる。
二十代後半の男性だった。
カジュアルではあるが、しっかりとした服装。
——社会人としての訓練を、受けている。
背筋は伸びている。
ただ、視線だけが定まらない。
「……すみません」
先に口を開いたのは、彼のほうだった。
「急に、来てしまって」
「構いません」
宗継は、それ以上、何も言わなかった。
男性は事務所の中を一度だけ見回し、
小さな棺のところで、視線を止めた。
ほんの一瞬だけ。そのまま、逸らす。
「ああ……」
「思っていたより、小さいですね」
彼の棺は、静かに置かれている。
布は掛けられているが、輪郭は曖昧だ。
重さも、ほとんど感じられない。
押し付けるような、圧もない。
「今日は、どのようなご用件で」
宗継がそう言うと、
男性は少し考えてから、息を吐いた。
「……大した話じゃないです」
そう言えるようになるまで、
何度も自分に言い聞かせてきた声。
「期待、ってほどでもなくて。ただ……」
言葉が止まる。
静久は、その沈黙を埋めなかった。
代わりに、糸を見た。
棺から伸びる糸は、弱々しく、ただ一本だけ。
当然、結び目もない。
糸は胸のあたりに触れているが、切れかけている。
期待をつないでおくには、かなり弱い。
「……いったんは諦めたこと、ですか?」
静久が、静かに言った。
男性は一瞬だけ目を伏せ、小さく息を吸った。
「……はい」
宗継は、視線を上げる。
「詳しく、伺っても?」
「はい」
男性は、背もたれから背を離した。
「……医学部を、目指していました」
声は、落ち着いている。
「二浪して、それでも駄目で」
棺は、静かなままだった。
「社会人になってからも」
「ずっと、医学部受験を考えてました」
言葉を、選んでいる。
「仕事が終わってから、夜、問題集を開いて」
「……でも、集中できなくて」
苦笑が混じる。
「医学部って、まず受かるまでの勉強量が桁違いで」
「浪人生だと、毎日10時間以上とか普通に勉強するんです」
現実的な認識。
「それに、入学してからも勉強が忙しくて」
「ほとんど、アルバイトできないって」
一拍、置く。
「……実家に、余裕もないですし」
宗継は、何も言わなかった。
能力の問題ではない。
覚悟だけの問題でもない。
時間、金、体力、年齢。
すべてを秤にかけた結論だった。
「だから、諦めました」
男性は、はっきりと言った。
「逃げた、とは思ってません」
糸は、揺れない。
だが、切れもしない。
「……ただ」
男性は、少しだけ間を置いた。
「いつか社会人として、貯金してからなら」
「もう一度、挑戦できるかもしれない……」
それは夢ではない。
計画でもない。
「60代で、医学部に合格して、医師になった人もいるんです」
未来に置いた、保留。
日々を超えていく、小さな希望。
「今は、目の前の仕事を、ちゃんとやりたいです」
言葉に、迷いはなかった。
「でも、この気持ちを、どう扱えばいいのか」
「たまに、わからなくなります」
静久は、糸を見る。
それは、
断ち切るべきものには感じられない。
同時に、今、引きずる必要もない。
「……それは」
静久は、ゆっくりと言った。
「自分に向けた、期待です」
宗継が、続ける。
「葬る話ではない」
棺は、軽い。
だが、そこにある。
男性は、深く頷いた。
「……頑張れる」
糸が、少しだけ緩んだ。
切れない。消えない。
「……気持ちが」
男性は、立ち上がりながら言った。
「ちゃんとしました」
宗継は、いつも通りに言う。
「お気をつけて」
事務所の扉が閉まる。
夕方の光が、事務所に差し込む。
それは、生きるための重さだった。
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