第20話 切れない糸
夕方の台所には、まだ昼の名残があった。
火を落としたあとの鍋。
使い切れなかった、野菜の端。
まな板の上に残る、水気。
宗継は、包丁を置いた。
最後に切ったのは、にんじん。
「……味、どうですか」
静久は、湯気の立つ小皿をすする。
「大丈夫だと思います」
「“思います”ですか」
「はい。いつもより、いい感じです」
宗継は、少しだけ頷いた。
最近、宗継が食事を作ることが増えた。
理由は、特にない。
強いて言えば、
火を使う時間が、少し余るようになったから。
棺を葬らない日が、増えている。
代わりに増えたのは、
糸の結びが解けるのを、見送る時間。
宗継は、味噌を溶かした鍋をそのままにして、窓を開けた。
夕方の風が入る。
「……散歩、行ってきてください」
「はい」
狐は、その言葉を聞く前から立ち上がっていた。
首輪の金具が、小さく鳴る。
静久は、狐を連れてアパートを出ていく。
外は、昼と夜の境目だった。
空の色が、どちらにも決めきれずにいる。
静久が、リードを持つ。
狐は歩き出す。
最近、この散歩の時間が長くなっている。
道の脇に、小さな公園がある。
遊具は古く、誰もいない。
静久は、ベンチの前で立ち止まった。
狐も止まる。
「前は……葬ることが、仕事だと思っていました」
狐は、何も言わない。
「でも最近は、葬る……じゃないことも増えて」
静久は、自分の言葉を探すように、少し間を置いた。
「……すれ違いを」
「どうするか、なんですね」
狐が、尻尾を揺らす。
風が吹く。
紙屑が、足元を転がった。
狐は、少しだけ歩いてから、振り返る。
「それを、巫女が言うか」
静久は、困ったように微笑った。
「切り結びは、もう、祈れませんので」
狐は、低く笑った。
遠くで、夕方のチャイムが鳴る。
狐は、足を止めた。
「そなたの糸」
「その中の一本だけは」
「決して切ることができぬ」
静久は、驚いたように狐を見る。
「そなたの母のものだ」
狐は、当たり前のように言った。
「母は、私が生まれてすぐ、亡くなっています」
「今生の母ではない。もっと古いものだ」
静久は、何も言えなかった。
狐は、空を見上げる。
「……仕事を、せよ」
静久は、リードを握り直した。
「仕事……ですか」
狐は、少し考えたあと、首を振る。
狐は、それ以上、語らなかった。
公園を抜け、家路に向かう。
空は、もう夜の色を帯び始めていた。
静久は、胸のあたりに残る”強い糸”の感触を思い出す。
切っていない。切ることができない。
アパートが見えてきた。
台所の窓から、灯りが漏れている。
「……帰りましょう」
扉を開けると、味噌の匂いが残っていた。
宗継は、台所に立っている。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
狐は、定位置に丸くなる。
宗継は、鍋に火を入れ直した。
「……温めます」
静久は頷く。
重すぎる期待は、
今日もどこかで、誰かの肩に乗っている。
それをどうするか。
どうしないのか。
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