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期待葬の司祭  作者: 八海クエ
第1章 司祭、巫女、狐
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第2話「あの子の分まで」

 棺は二つあった。

 どちらも白い布に覆われ、花はない。


 片方は、依頼主の棺だ。重荷、期待。

 もう片方は——宗継の棺。


 宗継は、そちらを見ない。

 凝視してしまえば、手順が崩れる。


 部屋に、冬の乾いた空気が残っていた。

 暖房は入れない。ぬくもりを足さないため。


 向かいに座る男性は、三十代前半に見えた。

 指先が揃いすぎていて、どこか人形のよう。


 彼は自分の棺を見ている。

 見ているのは、その奥にあるもの。


「……これが、期待ですか」


 声は低く、落ち着いていた。


「そうですが、あまり見つめないでください」

「危険です」


 優しさは足さない。突き放しもしない。

 慰めも正しさも、どちらも"毒"になる領域にいる。


 男性は、短く息を吐く。


「これ、消えるんですよね……手順を守れば」


 彼の言葉には期待がない。これは確認である。


「手順を守れば」


 宗継は同じ言葉を返した。


「守らなかったら?」


「だいたい、壊れます」


 男性は、顔色を変えなかった。


 棺から、糸が伸びている。

 細い絹糸のように見えて、実際は重い。


 糸は、男性の胸へ、喉へ、額へ。

 それから——背中へ。肩甲骨のあたりに、もう一本。


「この期待は、誰からのものですか」


「母です」


「お母様が、あなたに何と」


 男性は、静かに言った。


「あの子の分まで、しっかりしなさい」


 棺が、軋まなかった。


 期待を生む言葉は、棺を鳴らす。軋みは、抵抗。

 なのに、音がない。


 男性は続けた。


「弟は、病気でした。……ずっと。小さいころから」


 淡々としている。


「家は、貧しくも裕福でもありませんでした。普通です。ただ……弟のために、いろいろ、優先順位が変わりました」


 変わった。具体的な中身は、言わない。


「母は悪い人じゃないんです」


 ここを訪れる人の多くが

 棺を生み出した人を、かばう。


「分かっています」


 宗継は、静かに答えた。


「父は、あまり家にいない人でした」

「……母、弟と僕で、家が回っていました」


 回っていた。その中身も、彼は言わない。


「弟が死んだのは、十年前です」


 宗継は、何も言わなかった。

 ここで哀悼を挟むと、手順が歪む。


「葬式のあと、母は言いました」

「『あの子の分まで、しっかりしなさい』って」


 棺が——かすかに軋んだ。

 宗継の視界に、断片が押し寄せる。


 白い病室の天井。

 酸素の匂い、消毒液。機械信号の音。

 ベッドに横たわる弟。頬が薄く、目だけが大きい。

 兄の手を掴む力は弱いのに、離さない。


 廊下の長椅子。夜中。

 母が膝に顔を埋めて泣いている。

 兄は背中をさすろうとして、手を引っ込める。

 触れたら、自分も泣いてしまう気がしたから。


 葬儀場。黒い服の列。

 母が泣きながら兄の肩を掴む。

 その手は強い。必死で、強い。


『あの子の分まで——』


 断片は、そこで途切れた。


 宗継は息を整える。


 どんな期待でも、視界に入ると心が揺れる。

 揺れたまま手順を踏むと、火が暴れる。


「……それで、あなたはどうしましたか?」


 宗継が問うと、男性は即答した。


「しっかりしました」

「立派な職にも、つきました」


 本人の言葉のように、聞こえない。


「今のお仕事は」


「看護師です。主に夜勤をしています」


 誰かの世話をする。誰かの役に立つ。

 それは、期待が選びやすい着地だ。


 宗継は、棺の蓋に手をかざした。

 ひやりとした気配が指先に移る。


「お母様の言葉を、もう一度。あなたの口から」


 男性は、息を吸って、吐いて。


「『あの子の分まで、しっかりしなさい』」


 棺が軋んだ。さっきより少しだけ大きく。


「『あの子の分まで、しっかりしなさい』」


 今度は、棺が鳴かなかった。

 代わりに、糸が彼の背中で一瞬だけ締まった。


「暖かさは、感じましたか?」


 宗継が問うと、男性は少し考えた。


「……暖かい、というか」

「正しいと思いました」


 棺が、軋まない。

 正しさは、期待への"抵抗"を消す。


「正しい、と」


「はい」


 男性は頷いた。


「母が、つらかったのは当然です」

「弟の分まで、って言ったのも、分かる。……ですが」


 男性はまた、棺を見た。


「消したいんです。これを」

「……このままだと、ずっと弟の代わりです」


 宗継は、頷きかけてやめた。


 彼の言葉は「葬りたい」に聞こえる。

 しかし——糸の締まり方が違う。


 彼が消したいのは期待そのものではない。

 期待がなくなったあとの空白だ。


 宗継は、質問を変えた。


「もし、その期待が消えたら」

「あなたは、何をしますか」


 男性は、しばらく黙った。

 揃っていた指が、少しだけずれる。

 それが、彼の"抵抗"だった。


「分かりません」

「僕は、ずっと、弟の代わりに——」


 言いかけて、飲み込む。

 飲み込んだ言葉が、喉の糸に絡む。


「僕は——」


 男は、苦笑いのようなものを浮かべた。


「弟を、殺したいのかもしれません」

「もう、死んでるのに……」


 その瞬間、棺が大きく軋んだ。

 糸が一斉に引きつる。


「今日は葬りません」


 男性は驚かなかった。


「そうだと思っていました」


 少し間をあけて


「ずっと、葬れないんですか?」


 宗継は、言葉を選ぶ。


「分かりません」

「葬るにせよ。安全に葬る必要があります」


 男性の目が、わずかに動く。


「安全に、というのは」


「期待が消えたあとのことです。あなたが——」

「"自分の人生を生きたい"と願うのが前提です」


 男性は、唇を少しだけ噛んだ。

 今までにない仕草だった。


 宗継は、燭台を棚に戻した。


「確認をします」


 宗継は、静かに言った。


「弟を殺したい。そう言いましたね」


「はい」


「それは、本当にあなたの言葉ですか?」


 男性は、息を止めた。


「……分かりません」


「分からないまま火を灯すと、糸が暴れます」


 宗継は淡々と言った。

 それが脅しに聞こえないように。


「暴れると、どうなるんですか」


「あなたが壊れます」


 男性は、視線を落とした。


「……僕は、壊れてもいいです」


 その言葉は、あまりに静かだった。


「壊れても、いい」


 宗継は繰り返した。


「弟の代わりが、終わるなら」


 男性の声は、震えていなかった。

 宗継も、落ち着いた声で返した。


「それは、自分の人生を投げだすことです」


 男性は返さない。返さないことが答えだった。


「宿題を出します」


「宿題?」


「弟の代わりじゃない時間を、毎日五分だけ作ってください」

「次に来るとき、それができたかを教えてください」


「……できなかったら?」


「できなかった、と言ってください」

「それが、順番です」


 男性はしばらく黙り、ようやく言った。


「……いつ、葬れるんですか」


「弟を殺したい——その言葉を」

「罪悪感なしに言えるようになったら」


 男性は目を伏せた。

 受け入れたわけではない。理解しようとしていた。


「……また来てもいいですか?」


「いつでも。ただし、急がないことです」


 男性は立ち上がり、深く頭を下げた。


 期待は、いつも善意の顔をしている。


——あれを凝視してしまえば……あのときみたいに……


 宗継は、立ち上がり、部屋の隅にある戸棚を開けた。

 燭台を確認し、自分の棺を見ないまま、戸棚を閉める。


 アパートへ戻る道のりは短い。

 夜の空気が冷たく、頬が痛い。


 宗継が鍵を開けると、明かりに包まれた。


「おかえりなさい、宗継さん」


 キッチンから、女性が顔を出す。


「ただいま」


 同居人、恋人、妻。属性の枠に入れると、期待が生まれる。

 宗継は、むやみに、立場に名前を与えたくない。


「遅かったですね。ごはん、食べますか?」


 事実確認。


「……お願いします」


 彼女は嬉しそうに鍋の蓋を開けた。

 湯気が立ち上り、味噌の匂いが広がる。


「いつもより、美味しくできたんですよ」


 宗継は台所の入口に立ったまま、動けなかった。

 足元に、棺がある。


 彼女の目には見えない。

 けれど、宗継には——その棺が見えている。


 棺から、糸が伸びている。

 宗継の胸へ、喉へ、額へ。そして——背中へ。


「今日は、葬れませんでした」


 宗継は、ぽつりと言った。

 言うつもりはなかった。


 彼女は振り向かずに言った。


「そうなんですね」


 理由を聞いてこない。

 宗継の肩が、ほんのわずかに落ちた。


 棺は、消えない。

 期待を葬っても、幸せになるわけじゃない。


 宗継は、椅子に座った。

 味噌汁の湯気に隠れた、足元の棺を見ないようにしながら。



うー、思ったよりも長くなってしまいました。


あ、お読みいただき、ありがとうございます。

嬉しいのです。本当に。

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