第19話「おまえがいないと」
事務所の前で、足音が止まった。
それから、少し間を置いてノックが一回。
その直後、呼び鈴も、中途半端に鳴った。
「……いらっしゃいました」
宗継が言う。
時計は見ない。時間は、合っている。
扉を開けると、五十代前半ほどの女性が立っていた。
肩幅のあるコート。靴のつま先に泥が少しだけ残っている。
右手には、鍵束。
銀色の輪に、いくつもの鍵がぶら下がっていた。
「……九條先生、ですか?」
「はい」
宗継が答えると、女性は一度だけ頷く。
靴を揃える動作が、やけに丁寧だ。
鍵束が小さく鳴った。
女性は慌てて、鍵束を握り込む。
音を消すように、責任を隠すように。
事務所に入ると、白い布をかけられた彼女の棺がある。
視界に入った瞬間、女性の呼吸が浅くなった。
「……」
「あなたの棺です」
宗継はそれ以上、説明しない。
女性は、棺から自分の身体へ伸びるものに気づいた。
視線が、棺ではなく——その周りの空間で止まる。
「……糸」
声が掠れた。
「縛られていたのですね……私は」
静久は、少し離れた位置に座っていた。
女性を見るでもなく、棺を見るでもなく。
その“間”を見ている。
やはり、静久にも糸が見える。
棺は、重い。
だが——この棺は、優しく感じられる。
依頼人を押し潰すような重さではない。
糸は一本が太いわけではなかった。
同じ太さの糸が、均等に。
胸へ、喉へ、背へ。そして肩へ。
肩からさらに分かれ、鍵束のほうへも伸びている。
女性は息を吸い直し、瞬きをした。
「あまり、棺を見てはいけません」
「危険です」
女性は頷いた。
少し、呼吸を整えてから、女性は語り始めた。
「……私は、店をやっています」
「家の仕事で。父が倒れてから、ずっと」
鍵束が、また鳴った。
少し恥ずかしそうに、その鍵束を握り込む。
「『おまえがいないと回らない』って」
棺が、軋む。
軋み方は、少し変わっていた。
抵抗ではなく、整頓された音。
女性は、棺の音を気にしない。
「別に……悪い気はしません」
「むしろ、嬉しいんです」
言い切ったあと、喉元の糸が一度だけ締まった。
静久はそれを、確かに見た。気づいた。
「でも」
女性の言葉が、一瞬、止まった。
「でも、夜。店に鍵を掛けても——」
「……まだ、頭の中で店が回ってるんです」
宗継が問う。
「ご依頼は、何ですか?」
女性は、すぐに答えなかった。
鍵束の札を親指で撫でる。
「……棺は、葬らないでください」
宗継の目が、わずかに動く。
「明日も店は開けたい」
「期待を、裏切りたいんじゃない……です」
沈黙。
「……娘が」
「最近、店を手伝ってくれてて」
「でも私は、娘に申し訳ないと思ってて……」
女性が、ふと顔を上げる。
静久を見た。
「……すみません。あなた」
静久は、ただ頷いた。
「はい」
女性は困惑したように言う。
「……見られている、っていうより」
「見透かされている、でもなくて……」
静久の目線が、一瞬だけ泳ぐ。
糸が、揺れた。
糸の一か所に、硬さを見つけた。
静久が、語り出す。
「……夕方です。鍵を閉める前」
「シャッターを半分下ろして」
「……誰かが、後ろにいました」
女性は、息を吸った。
「……娘です」
「『私がやるよ』って、言われました」
それは、拒絶ではなかった。
ただ、娘に店の鍵を預けるのは、今ではなかった。
女性は、視線を落とす。
「私……返事をしませんでした」
「……娘からしたら、信頼されてないって」
「もっと信じて欲しいって思いますよね」
その瞬間。
糸の結び目が、ひとつ緩んだ。
糸の一部が、鍵束へ集まるのをやめた。
女性の表情が、和らぐ。
「……あれ? 少し軽くなった」
棺は、沈黙している。
「あなた、何を?」
静久は、この問いに困惑して答える。
「この部屋の換気……の問題かと」
宗継は、何も言わなかった。
宗継が、話題を逸らす。
「いかがしましょう?」
「ご負担が、軽くなられたなら——」
女性が、鍵束を手の中で転がす。
「あの子はきっと、迷惑だなんて思わないのに」
「私が、勝手に先回りして」
女性が、ぽつりと言う。
誰に向けた言葉でもない。
宗継は、今日も手順に入らない。
依頼人が求めたのは、棺を葬ることではない。
「今日は、ここまでにしましょう」
女性は頷く。
頷き方が、さっきより軽い。
「鍵を、一本だけ。娘に渡してみます」
沈黙。
「分かりました」
静久は、糸を見続けていた。
ほどけた結び目が、また固くならないように。
女性が立ち上がる。
鍵束が、また小さく鳴った。
「……ありがとうございました」
女性は深く頭を下げ、扉の前で一度だけ振り返った。
棺を見そうになって、目線を逸らす。
そして静久に、頭を下げる。
事務所の扉が閉まった。
宗継は湯呑みを片づけながら、静久を見る。
「静久さん」
「はい」
「今のは」
静久は小さく首を横に振った。
「……言葉にしてはならないと。そう感じてます」
宗継は黙った。
狐が、目を開けた。
眠ったふりの姿勢で、ぽつりと言った。
「……切らんのだな」
宗継が、この場をいつもの調子に戻そうとする。
「次の依頼、準備しましょう」
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