第18話「助けてください」
事務所の前で、足音が止まった。
それから、少し間を置いて呼び鈴ではなく、ノックが二回。
強くもなく、弱くもない。
迷ってはいないが、覚悟を感じさせる音だった。
「……いらっしゃいましたね」
宗継が低く言う。
時間は合っている。
扉を開けると、三十代後半の女性が立っていた。
コートの襟は整えられているが、肩の力は抜けていない。
右手に、薄い布のハンカチを握っている。
「こちらで……合っていますか?」
問いは確認というよりも、決意のように聞こえた。
「はい」
宗継がそう答えると、女性は一度だけ頷いた。
靴を揃える動作が、やけに丁寧だ。
女性は、ハンカチを持ち替えた。
指先が、ほつれた端に絡む。
それを解こうとして、やめる。
白い布をかけられた彼女の棺が、ある。
視界に入った瞬間、女性の呼吸が浅くなった。
「……あれが」
「ええ」
宗継はそれ以上、説明しない。
女性は、棺から自分につながる糸に気づいて、顔をしかめた。
「き、気持ち悪い」
静久は、少し離れた位置に座っていた。
女性を見るでもなく、棺を見るでもなく——
その“間”を見ている。
静久にも、糸が、見える。
棺は、重い。
だが、それよりも糸が多い。
女性は自分の棺を見て、息を吸い直している。
一本一本は細く、頼りない。
それが途中で分岐し、胸へ、喉へ、背へと絡みついていた。
宗継は棺を一瞬だけ見て、視線を戻した。
「あまり、あの棺を見てはいけません」
「引き込まれます」
女性は、何かに気づいたようだ。
自分の気づきを、語り始める。
「……私」
言いかけて、一度、言葉を飲み込む。
「私、カウンセラーをしています」
宗継は、小さく息を吐いた。
「なるほど」
女性は視線を落とす。
床ではない。
自分の足元でもない。
「『助けてください』って言われると……」
「私、断れなくて」
棺が、軋んだ。
依頼人の女性が、その音に怯える。
宗継は、意識的に間を置いて言う。
「大丈夫です。ただの音です」
静久は、ずっと糸を見ている。
数ではなく、結びを。
絡まっているのではない。
丁寧に、結ばれている。
ほどけないように。
宗継が、言う。
「あなたの、才能です」
女性は、苦笑いをして
「そう言われるから、逃げられなくなります」
ハンカチの端が、指に食い込む。
静久は、棺から伸びる糸の一本が締まるのを見た。
女性は、おもむろに
「棺は、葬らないでください」
「ただ、少しだけ楽になりたいんです」
沈黙。
女性が、ふと顔を上げた。
宗継ではない。静久を見ている。
「……すみません、あなた——」
静久は、頷く。
「はい」
女性は、静久に対し、困惑したように言う。
「……あなたが、とても暖かく感じられて」
その言葉に呼応するかのように、
静久の視界に、ひとつの場面が浮かんだ。
小さな会議室。白い壁。南国のカレンダー。
長机の向こうで、若い女性が俯いている。
依頼人の部下のようだ。
「……すみません。あんな、ミスをして」
小さな声。彼女に対して、依頼人は
「大丈夫」
「あなたは、ちゃんとやってる」
部下の女性は、顔を上げなかった。
——伝わっていない。
静久には、その場面の“続き”が見えた。
話が終わったあと。
依頼人は、それ以上、部下に声をかけなかった。
一人にしてあげようと思って、先に会議室を出た。
部下は、依頼人に「見捨てないで」と強く願った。
静久は、目を伏せる。
「……小さな会議室」
「壁に目立つものがあった」
女性の指が、ハンカチを握りしめた。
「沖縄のカレンダー」
「部下を……一人にしてあげようと思って……」
静久は、視線を落とす。
「その人は、あなたに」
「見捨てられたと……感じたかもしれません」
女性の喉が鳴る。
「……ああ」
その瞬間、糸の結び目が、ひとつ緩んだ。
そして女性の肩が、すとんと落ちた。
「少し、息が……楽になりました」
「あなたが、そうしてくれたんですか?」
静久は、この問いに困惑している。
その困惑を悟られないよう、静久は言う。
「この部屋の換気……の問題かと」
宗継の表情が、一瞬だけ固くなる。
意識して表情を緩めつつ、宗継が締める。
「いかがしますか?」
「また辛くなったらここに来る、でも結構です」
静久は、糸を見続けている。
ほどけた結び目が、また結ばれないように。
宗継は、信じられないといった表情を隠せないでいる。
部屋の隅で、狐が丸くなっている。
目は閉じている。
尾先が、静かに揺れていた。
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