第16話 知っている狐
朝の空気は、まだ冷えていた。
静久はアパートの玄関で靴をはき、振り返る。
「参ります」
声をかけると、影が動いた。
白と金の毛並みを持つ狐が、ゆっくりと立ち上がる。
伸びをし、尻尾を一度だけ大きく振ったあと、静久の横に並んだ。
きちんと首輪をつけている。
静久は、それがとても嫌だ。
「神様……申し訳ございません」
そう言って、静久はリードを手にする。
宗継が、静久の背に向かって言う。
「……散歩ですか」
これに静久は、口を尖らせて答える。
「当たり前です」
「必要……なんですか?」
「必要かどうかなんて、どうでもいいのです」
「では、行ってきます」
静久はそう言って、アパートの扉を閉める。
狐が一歩外に出る。
地面の匂いを確かめ、しばらくじっとしてから、歩き始めた。
狐は、犬のように人の顔色をうかがわない。
静久の歩調に合わせ、二、三歩先を行き、時折立ち止まる。
まるで、道を選んでいるようだった。
「神様、今日はご機嫌がよろしいですね」
狐は、顔を見られるのが恥ずかしいようだ。
振り返らないまま、言った。
「ふむ。そんなことまで、わかるのか」
「ええ」
「わしはもう、神ではない。もう、やめておる」
「はい。ですからもう、お名前もございません」
「神様としか、お呼びできません」
狐が、ぴたりと足を止めた。
「ふむ。名前か。あると便利だが、なくても困らぬな」
狐は、やはり振り返らない。
だが、耳がわずかに動いている。
静久は、そんな狐を見て、息を整えた。
早朝の河川敷。光の角度がまだ浅い。
向こうから、犬を連れた中年女性がやってくる。
「神様、人が来ます」
狐は、少し緊張する。
中年女性が、声をかけてきた。
「おはようございます。あら、綺麗なワンちゃんねー」
静久は、狐を庇うようにしながら
「お、おはようございます」
先方の犬が、狐に興味を示す。
犬は、尻尾を振って、狐の匂いを嗅いだ。
犬が、怯えて後ずさる。
「ちょっ、すみません。うちの子、人見知りなんです」
「あら、ごめんなさい。じゃあ、また」
狐の尻尾が、ふわりと揺れた。
犬を連れた中年女性が、その場を去っていく。
「犬は、誤魔化せんな」
「はい。あの子、神様のこと、気づいてましたね」
「おぬしのことも、な」
「え? なんですか?」
狐は、答えない。
河川敷を離れる。
住宅の間を抜け、小さな林の前で、狐は立ち止まった。
それ以上、進もうとしない。
「……どうなさいました?」
静久が問う。
狐は一歩も動かない。
静久は、林の奥を見た。何もない。
ただ、風が少し強く、葉の擦れる音がするだけだ。
「他の神がおる。あまり、良いものではない」
狐は、静久を見た。
その視線は静かで、古い。
「……そうですか」
「そなた、かなり面倒な力を持っておるな」
狐は、それ以上、何も言わなかった。
静久も、無理に聞こうとしない。
「そろそろ、戻りましょう」
「宗継さんが、お腹を空かせて待ってます」
狐は即座に踵を返す。
帰り道。狐は一度だけ、森を振り返った。
「この道を通るのは、これで最後かもしれぬな」
「気に入られたのなら、また来ましょう」
静久が言うと、狐は当然だ、というように前を向いた。
長い沈黙。
狐は、静久の少し前を歩いていく。
アパートに着く。
「……九條が、心穏やかでないようだ」
「外まで、奴の気配が漏れておる」
「きっと、お腹が空いているのでしょう」
狐は、心配そうに静久を見上げる。
静久は腕まくりをし、アパートの階段を登っていく。
「この二人、本当に、わかっておらぬのか……」
狐はそう呟いて、階段を登る。
「ただいま、戻りました」
静久は、扉を開けながら、器用に狐の首輪を外す。
狐は、その静久の脇を抜け、スルリと家の中へ入った。
宗継が、玄関まで来て、静久を出迎える。
「お帰りなさい。朝ごはん、作っておきました」
「え? 宗継さん、すみません」
「そんなに、お腹空いてましたか?」
狐は、知っている。
これとよく似た物語の結末を。
知っていて、黙っている。
お読みいただき、ありがとうございます。
この物語にとって、とても大切な線です。




