第13話 いい子ではない娘
依頼人は、予約より十分早く事務所に現れた。
呼び鈴を押す指が、ためらいなく真っ直ぐ。
音も一度きりだった。
「どうぞ」
宗継が扉を開けると、三十代半ばの女性がいた。
服装は落ち着いていて、化粧も控えめだ。
だが、目だけがやけに澄んでいる。
「九條宗継さんですね」
「はい」
女性は背を伸ばし、示された椅子に座った。
手は膝の上で重ねられている。
彼女の棺は、ない。
「確認します」
宗継は、静かな口調で始めた。
「あなたに、捨てたい期待はありますか?」
「いいえ」
即答だった。
「では、期待に悩んでいる方は?」
女性は顔を上げて
「娘です」
静久は、何の反応も示さない。
ただ、茶を注ぐ手元が、少しだけ慎重になる。
「娘さんは、どこですか?」
「塾です」
宗継は、頷いた。
「続けます」
「期待を、どうしたいとお考えですか?」
女性は、息を吸った。
「……軽くしてほしいんです」
その言い方は、正確だった。
「消してほしい、ではなく?」
「はい。消さないでください」
宗継は、今一度、事務所に棺がないか確認する。
ない。
この女性の声が、宗継の頭の中で響く。
『いい子だね』『あなたならできる』『信じてる』
どれも、優しい。
だからこそ、重い。
「理由を」
宗継が促すと、女性は言葉を選んだ。
「娘は……昔から、よく頑張る子でした」
「手がかからなくて」
「何も言わなくても、自分で考えて……」
そこで、声がわずかに曇る。
「でも最近、元気がないんです」
「理由を聞いても、ただ『大丈夫』って」
宗継は黙って聞いている。
「だから、きっと……」
「期待が重すぎるんだと思って」
女性は、少し考えて
「“いい子でいてほしい”って願い続けたせいで」
パチッと、事務所の空気が鳴る。
『いい子だね』『あなたならできる』『信じてる』
宗継の頭の中で、また、女性の声が聞こえた。
「だから……それを、少しだけ葬ってもらえたら」
宗継は、首を横に振った。
「その期待を葬るのは、僕ではありません」
「あなたにしか、できません」
女性は、初めて目を見開いた。
「……娘が、苦しんでいます」
「原因は、あなたの期待です」
逃げ場は、与えられなかった。
事務所の空気が、張りつめる。
女性の表情が、初めて歪んだ。
「私は、あの子のために……」
「分かっています」
宗継は、即座に言った。
「あなたの期待は、善意です。ですが」
宗継は、続けた。
「善意は、必ずしも幸せとつながっていない」
女性は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……どうすれば、期待を減らせるんですか?」
「娘さんが好きにできる時間、増やせませんか?」
女性は、苦笑した。
「ネットで動画を見てばかりになりますよ……」
「それが、あなたにとって”いい子ではない娘”ですね?」
女性は、宗継の目を見る。
「”いい子ではない娘”を、少しだけ許してあげる」
宗継も、母親の目をまっすぐ見た。
「それが、期待を減らすということです」
静久が、茶のおかわりを机に置く。
それを横目に、宗継が続ける。
「いい将来に向けた準備ばかりでなく」
「今を楽しむことも、少しは許してあげられませんか?」
女性は、困ったように笑った。
「受験なんです……難しいですね」
宗継は、はっきりと言う。
「期待に応えるのは、簡単だと思いますか?」
「それは……」
「娘さんも、難しいことに苦しんでいます」
帰り際、女性は振り返り、宗継に目線を向けた。
事務所の扉が閉まる。
小声で、静久が言う。
「怒らせましたね」
「そうですか?」
おかわりの茶には、
手がついていなかった。
第2章の始まりです。
お読みいただき、ありがとうございます。




