第12話「らしくない」
事務所の扉が開く音が、少しためらっていた。
宗継が視線を上げると、若い女性が立っていた。
年齢は静久と同年代、二十歳前後。
背筋は伸びているが、両手は固く組まれている。
「……失礼します」
声は小さい。
「どうぞ」
宗継は、椅子を示す。
女性は一礼してから座った。
彼女の視線は宗継から静久、狐へと流れ、事務所の隅で止まる。
──彼女の棺。
白布をかけられた、期待の棺がそこにある。
女性は、すぐに棺から目を逸らした。
「……見ない方が、いいんですよね」
「ええ」
沈黙。
「なぜ……ですか?」
稀に、聞かれることのある質問。
「本当のところは、わかりません」
「ただ、引きずり込まれてしまいます……」
「なんだか……分かります」
女性は、小さく息を吐いた。
宗継は、場を先に進める。
「お話、伺います」
女性は、少し考えてから言った。
「……留学しようか、迷っています」
「迷う」
「イルカの研究がしたくて。海外の大学です」
「厳密には、イルカの社会性についてです」
宗継は眉一つ動かさずに
「今は、何を勉強されているのですか?」
「薬学部にいます」
女性は、そこで少しだけ笑った。
「変、ですよね……」
その問いには答えずに、宗継は問う。
「迷っている、とは?」
女性は、視線を落とす。
「薬学部にいるのは、親の影響が大きいです」
「実家が、小さな薬局を経営しているので」
沈黙。
「私が薬剤師になることが……」
「周囲の期待と思ってました」
棺は、何の反応もしない。
「それが事実なら、薬剤師の資格を取得してから──」
「その後、留学すればいいだけでした」
棺は、静なまま。
「でも……みんなに、言われたんです」
「何を?」
彼女は、少し、ためらった。
それから、口を開く。
「『君らしくない』って」
その言葉が出た瞬間、棺が、大きく軋んだ。
女性はその音に少し怯えながらも、続けた。
「友だちにも、家族にも……彼氏にも言われたんです」
宗継は、ただ頷いた。
「……私、ずっと大人しかったんです」
女性は、ゆっくり話す。
「親にも、先生の言うことにも、ほとんど逆らわなくて」
「自分を主張するってことが、ないというか……」
「それが、“らしい”」
「はい」
女性は、膝の上で指を組み直す。
「だから……急に留学とか、イルカの研究とか言うと」
「みんな、困るんだと思います」
「困らせている、と」
「……はい」
宗継は、棺を一瞥し、目線を逸らす。
「あなたも、困っていますよね?」
女性は、すぐに答えられなかった。
しばらくして、ぽつりと言う。
「はい」
沈黙。
「イルカの研究、あきらめたくなくて……」
「でも、留学にはお金もかかるし……」
宗継は、表情を曇らせて
「あなたに、変わらないでいてほしい」
「それが、周囲の期待でしょうか」
半拍遅れて、宗継から溢れる。
「そんな……」
静久がビクッと身体を固める。
狐も、首を上げた。
女性の肩が、わずかに揺れる。
女性は、宗継の言葉の先を読み取って
「勝手……ですよね……」
声が、震えている。
宗継は、不自然に会話を止めた。
──まさか。まさか、これが。
女性が尋ねる。
「この言葉を、葬った方がいいんでしょうか?」
宗継は、考えている。
しばらくして。
「今日は、葬りません」
女性は、目を見開いた。
「え……?」
「その言葉が、あなたを縛っているとしても」
「……はい」
「それでも、あなたは留学を考えている」
女性は、黙っている。
けれど、否定はしない。
「あなたは」
宗継は、静かに告げる。
「期待に従うかどうかを、自分で決めようとしています」
棺は、そこにある。
消えてはいない。
けれど女性の視線は、
棺に引き寄せられてはいない。
「……私」
女性は、深く息を吸う。
「怖いです」
「はい」
「嫌われるかもしれないし、心配されるし……」
「がっかりも、されると思います」
「そうでしょうね」
宗継は否定しない。
女性は、しばらく黙ってから言った。
「……それでも」
声が、少しだけ強くなる。
「行きたいんです」
宗継は頷いた。
それ以上、言葉は足さない。
女性は、立ち上がった。
来たときよりも、背筋がずっと伸びている。
「……ありがとうございました」
宗継は答えない。
扉の前で、女性が振り返る。
「また……『君らしくない』って言われると思います」
棺が軋む。
「ええ」
それから女性は、
この事務所に来て初めて、笑顔を見せた。
「私、嫌われてもいいです」
そのとき。
彼女と棺を繋いでいた糸が、切れた。
扉が閉まる。
事務所に、静けさが戻る。
この事務所を出て行ったのは、
──自分らしさを、自分で決める人間。
葬らなくても、越えられる期待がある。
宗継は、湯呑みを片づける。
静久が、その背にそっと手を伸ばした。
これで第1章の完結です。
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第2章に、続きます。




