第10話「先生だけが頼りです」
扉が開いたとき、
宗継は、少しだけ遅れて顔を上げた。
——来てしまった。
そう感じた。
依頼人は、女性。三十代半ば。
服装は整っているが、どこかラフな感じもある。
部屋に足を踏み入れた瞬間、彼女は立ち止まった。
視線が、宗継から外れる。
隅で丸くなっている狐。壁際の椅子に腰掛ける静久。
しかし彼女は、視界に入っているはずの棺は見なかった。
「……すみません」
それから女性は、そう言った。
何に対しての謝罪かは、分からない。
「期待葬、ここで合ってますか?」
「はい。お話を伺います」
女性は、少しだけ息を整えてから、座った。
女性は、しばらく黙っていた。
そして、自分の膝に置いた手を見つめた。
「私……小児外科医です」
宗継は、顔を上げない。
「がんのお子さんを、たくさん診てきました」
言葉が、淡々と続く。
「技術的な意味で、手術は成功させることができます」
「でも……手術は成功しても、助からないことも多く……」
静久が、茶を差し出す。
女性は「ペコリ」と小さく礼をする。
「“お願いします”って。“この子だけは”って」
「”先生だけが頼りです”って——」
棺が音を立てずに、震える。
「やっぱりそれ、私に向けられた期待なんですね」
少し小さな声になって、
「手術室に入る前、ご両親に手を握られます」
彼女は、ぎゅっと指を折り曲げる。
「離してもらえないこともあります」
狐の尾が、床を打つ音がした。
「医師なんですから。期待されるのは当然です」
声は、震えていない。
「助からなかったとき……」
一拍。
「“人殺し”って、言われたりもします」
宗継は、何も言わない。
「訴えられることも、あります」
棺の存在が、部屋の空気を圧す。
だが、誰もそれを見ない。
「それでも、次の手術があります」
女性は、笑って見せる。
「他の子が、手術を待ってます」
「本当は、とても怖いはずなのに」
静久が、一歩踏み出しかけて止まる。
「私に向けられている期待は、正しいものです」
——正しい期待。
「でも」
女性は、顔を上げる。
「もう、疲れてしまいました」
「葬ってください」
宗継は、静かに問う。
「今回だけ……ではない?」
女性は、首を振る。
「定期的に、お願いしたいです」
「手術に集中したいので」
そう言って、彼女は湯呑みを置いた。
——これは、正しくて逃げ場のない期待だ。
「……確認させてください」
宗継は、慎重に言葉を選ぶ。
「あなたは、期待を“なくしたい”のではない」
「期待するのは、当然です」
「減らしたいわけでも、軽くしたいわけでもない」
「医師に期待するのは」
「患者やそのご家族にとって当たり前のことです」
沈黙。
「医師を続けるために、葬りたいと」
女性の目が、初めて揺れた。
そして宗継は、はっきりと
「今日は、葬りません」
女性は、驚かない。
それでも、問う。
「なぜ、ですか?」
宗継は、姿勢を正す。
「先生は、もう、おわかりなのだと思います」
一呼吸して
「医師は、常に期待とともにあります」
——祈られるのは、神と同じだ。
「しかし、その期待を葬るのは……」
——神をやめた、狐のようなもの。
宗継は、慎重に言葉を選ぶ。
「あなたは医師である前に、人間です」
「人間が壊れてしまうようなら、葬ります」
彼女は少し考えてから、はっきりと
「私が、自分の意思で選んだ仕事です」
立ち上がる前。
彼女は一度だけ、棺のある方向を見て——
すぐに視線を逸らした。
「壊れそうになったら、また来ます」
扉が閉まる。
——正しくて逃げ場のない、永遠に続く期待。
宗継は、湯呑みに手を伸ばし、茶をすすった。
第10話まで来ました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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