第1話「いい子」
棺は、そこにあった。
白い布に覆われ、花はない。
それでも、九條宗継には分かる。
これは——期待だ。
期待葬の儀式に、特別な準備は要らない。
必要なのは、棺と、言葉と、火だけ。
目の前に座る女性は、二十代後半。
背筋は不自然に伸び、
膝で重ねられた手は微動だにしない。
「私、こんなのを、引きずってたんですね」
「……これ、本当に消せるんですか」
一般人でも、この部屋では棺が見える。
しかし彼女は、自分の棺をほとんど見ない。
凝視すれば、壊れてしまう。
彼女はそれを、知っているかのようだ。
「手順を守れば」
宗継は淡々と答えた。
優しくもしなければ、突き放しもしない。
「手順を守らなかった人は?」
「だいたい、壊れます」
棺から、細い絹糸のようなものが伸びている。
女性の胸へ、喉へ、額へ。
言葉にならなかった感情、選ばれなかった可能性。
すべてを絡め取るように、期待は人に憑く。
「……母は、悪い人じゃないんです」
女性が、ぽつりと呟いた。
「分かっています」
「私のためを思って、ずっと……」
「それも、分かっています」
宗継は、棺の蓋に手をかざした。
ひやりとした気配だけが、指先に移る。
何度も塗り重ねられ、磨かれ
本人よりも“本人らしく”なってしまった理想。
「お母様の言葉は、どんなものでしたか」
期待を生んだ言葉。
それは必ず、当人の口から語られる必要がある。
女性は少し考えてから、答えた。
「……『いい子』です」
その瞬間、棺が軋んだ。
宗継の視界に、断片が押し寄せる。
夕方の台所。鍋の火を気にしながら、母親が笑っている。
「いい子ね」と言われた瞬間、幼い背中がわずかに緩む。
泣きかけていた呼吸を、無理に飲み込む。
運動会の帰り道。本当は走るのが嫌いだと口にしかける。
しかし母の横顔を見て、言葉を引っ込める。
代わりに「楽しかった」と言った。
進路希望調査の紙。夢を書く欄が空白のまま。
母の声が聞こえる。
「あなたなら、できると思ってる」
その一言で、イラストレーターへの憧れが失せてしまう。
怒らない。逆らわない。
そして、期待を裏切らない。
それは、愛されるために覚えた、
上手な生き方だった。
“いい子”
完成を押しつける言葉。
「暖かさは、感じましたか?」
宗継が問うと、女性は首を振った。
「……大切にされていたのだとは思います」
「でも、暖かくは……なかったです」
宗継は、ただ頷いた。
「これは、お母様の理想です」
「それが悪いわけじゃありません」
棺の上に、小さな燭台を置く。
火を灯すと、期待は一度だけ強く輝いた。
自分の正当性を主張するみたいに。
「最後に、あと一つだけ」
宗継は言った。
「あなたの言葉で、送ってあげてください」
女性はしばらく黙っていた。
唇が震え、呼吸が乱れる。
「……ありがとう……ございました」
それは、区切りだった。
火が消える。
棺は音もなく、ほどけるように消えた。
糸が切れ、女性の肩が、ほんのわずかに落ちる。
「……これで、私はどうなりますか」
「あなた次第です。あなたの人生を生きてください」
宗継は加えて
「それが、一番安全です」
と言った。
「なにそれ」
女性は小さく笑った。
泣きそうで、泣かない。そんな表情をしていた。
彼女は去っていった。その背中は、柔らかだった。
宗継は座ったまま、動かなかった。
足元には、別の棺がある。
宗継は、それを視界に入れない。
——凝視してしまえば……あのときみたいに
九條宗継。司祭。人を救う人。
誰かが、宗継にそう期待している。
宗継がアパートに戻ると、明かりがついていた。
「おかえりなさい」
キッチンから、女性が顔を出す。
「早かったですね。ごはん、もう食べますか?」
その声には、
“ちゃんとやれました?”も
“誰か救えました?”も
“無事でよかったです”すらない。
事実確認。
「……お願いします」
宗継がそう言うと、彼女は少し味見をする。
「うん」
そう言って、鍋に火をつけた。
一般人には、棺は見えない。彼女にも見えない。
しかし彼女は、そこに棺が二つあることを知っている。
はじめまして。
八海クエと申します。
お読みいただき、ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
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