◆エイルマー・モーンフィールドの記憶
「なんだ……この資料は……」
正騎士となったエイルマーは、法務省で事件資料を見て、落胆した。
四年半前にあったハーヴェイ第二王子暗殺未遂事件の調査記録から、襲撃者を撃退した少女の名が消えていたのだ。
「嘘だ……嘘だ……そんなはずは……」
資料に載っている少女についての情報は少ない。
十代の貴族でたまたま宮廷を訪れていたこと、事件で負傷し、しばらく宮廷内で療養したこと――たったそれしか書かれていない。
個人が特定できそうな部分はすべて、黒く塗りつぶされているのだ。
まるで、少女の顔が思い出せないエイルマーと一緒だった。
個人的な事情で騎士の権限を使うことは、褒められた行為ではない。
だから平静を装い、法務省の事務員に探りを入れる。
「ああ、これまでに何度か、閲覧権限のある者が資料を悪用した例がありまして……とくに窃盗や強盗事件の被害者からの要望が多かったんですよ」
「なるほど……その家の資産状況が筒抜けになってしまいますからね」
「ええ。犯罪に使われないとしても、投資話を持ちかけられるなどの二重被害が多数報告されておりました。それで、王家主導で新しい法が作られたというわけです」
事務官は、誇らしげだ。
二重被害という言葉が、エイルマーに多少の罪悪感を抱かせる。
「よ……よくわかりました……」
とりあえず引き下がり、法務省をあとにするしかなかった。
剣姫は四年半前の時点で意図的に名を隠していたのだから、正体を暴くなんて、やはりよくないのだ。
そんなことは重々承知しているが、諦められない強い想いが、エイルマーの中にはある。
再会が叶えば、エイルマーは全力で彼女に恩返しをするつもりだ。
剣姫もきっと、遠慮して名乗らなかったことを悔やみ、エイルマーの想いを受け入れてくれる――そうなるべきだというのに、機会すら奪われるのは理不尽だ。
それにエイルマーは、剣姫のために献身的な婚約者だったアリスを手放した。このままでは両方失う最悪の事態となる。絶対に受け入れられない結末だ。
しばらくは、無気力に過ごす日々が続いた。
(もう騎士団にいる意味がない……だが、正騎士になったばかりで退団したら、いくらなんでも格好が悪い)
エイルマーの中にはまだ、立派な貴族であるというプライドが残っていた。
だから退団を申し入れることができず、苦情が入らない程度に仕事をして、どうにか騎士を続ける。
そんなある日、ミッチェルから所用を言いつけられた。
「騎士団の連携について近々会議が行われる予定なんだ。議題について事前にすり合わせが必要でね。この資料を白鹿騎士団本部まで届けてほしい」
(白鹿騎士団本部か。……アリスがいるかもしれない……)
彼女に会いたい気持ちと、会うべきではない気持ちがせめぎ合う。
アリスとは一緒にいるのが当たり前だったから、寂しさを感じている。
けれど舞踏会の日以来、声をかけづらくなっているし、ハーヴェイやランドルとは絶対に顔を合わせたくなかった。
だから白鹿騎士団本部を訪れるのは気が引けるけれど、もちろん団長命令ならば従うしかない。
幸いにして苦手な二人は不在で、対応してくれたのは副団長マイルズ・ティンダルだった。
用事はすぐに終わったが、せっかく宮廷まで出向いたのだからと思い、庭園を散策することにした。
季節は冬の終わり。まだ日暮れの時刻が早い。なんとなく四年半前を思い起こさせるオレンジ色の空が目の前に広がる。
そのせいだろうか……。エイルマーの足は自然と庭園の奥のほうへ向いた。
迷路のような薔薇のアーチと、太く背の高い木。
はしゃぐアリスの姿が今でもはっきりと目に浮かぶ。
襲われ、怪我をした場所ではあるけれど、やはり剣姫と出会った思い出が大切だから、不快な気分にはならずにいられる。
「あれは……?」
女性騎士らしき人物の背中が見えた。
宮廷内を巡回中なのだろうか。きびきびとした歩きで、遠ざかろうとしている。
高い位置で一つにまとめられた髪は茶色だ。
(まさか……剣姫……?)
エイルマーは急ぎ、彼女のもとへと駆け寄る。
白鹿騎士団の女性団員は三人だけで、そのうち茶色の髪をしているのはマルヴィナ・フロックハートただ一人だ。
けれど、マルヴィナは年齢的に剣姫ではないし、少し前に罪を犯し捕まっているためこの場にいるはずがない。
アリスとノックス騎士団長の娘は、特徴が合わない。
だから剣姫は白鹿騎士団員ではないと考えていたのだが、見落としがあったのかもしれない。
「そこの騎士殿!」
声をかけると女性騎士が振り向いた。
その顔を、エイルマーはよく知っている。
「……え? あっ、ア……アリス……?」
一瞬、時が止まった気がした。
夕暮れ時だから、色が濃く見えただけで、茶色だと思っていた髪は実際には金髪だ。
本来白であるはずの制服も、くすんだピンクに見えている。
「ごきげんよう、モーンフィールド侯爵様。なにかご用ですか?」
薄暗い場所で、色の違いがはっきり見えないのは当たり前の話だ。
これまで夕暮れ時の彼女の姿を何度も目にしてきたはずだった。それなのに、どうして可能性を考えなかったのだろう。
やや警戒した表情で、対応するアリス……。
昔のようにほほえんでくれることはなくなった。
『大丈夫、あなたのことは、私が守るから』
そう言ってくれた少女について思い出そうとすると、顔だけが黒く塗りつぶされている。
この四年半、ずっとそうだった。
深く考えようとすると、猛烈に胸が苦しくなり、思考が停止する。
「侯爵様、大丈夫ですか?」
「……あぁ、あ……問題ない。今日は……もう、帰るよ……」
「医務室まで、ご案内いたしましょうか?」
じくじくと胸と一緒に古傷が痛む。
心配してくれているアリスの言葉を無視して、エイルマーは逃げるようにして立ち去る。
朱鷲騎士団本部に戻り、ミッチェルに報告をすると、顔色が悪いということで帰宅が許された。
母の小言を聞き流し、寝室のベッドに横たわる。
(思い出せ……今、思い出さなければ、いけない気がする……)
目を閉じて、これまでずっと無視してきた胸の痛みの奥にある感情と向き合った。
「はぁっ、はぁ……」
すると毎回黒く塗りつぶされる少女の輪郭や、瞳……唇のかたちが鮮明になる。
「アリスッ!」
そうしてエイルマーは思い出す。
最初に怪我をしたハーヴェイと、彼を追う侵入者の姿を見つけたとき、自分がアリスの手を引かずに、先頭を切って逃げたこと。
そうしたら二人目の侵入者の標的にされたこと。
婚約者で年下の令嬢であるアリスを守らなければいけない立場だったのに、逆に守られてしまったこと……。
大怪我をしているハーヴェイですら、アリスを守ろうと抵抗していたのに、エイルマーだけがなにもしなかったこと……。
胸の痛みは、羞恥心と後悔。そして勇敢な少女に魅入られた、どうしようもない衝動だったのだ。
(そうだ……。目覚めて、母上から『あなたが守ったから、アリスさんは無事だったのよ。立派な次期侯爵ね』と言われて、私は……その言葉を否定できなかったんだ……)
幸薄く、家族に恵まれず、だからこそ将来家族になる者に依存し、健気に尽くそうとするアリスのことを、エイルマーは気に入っていた。
アリスと一緒にいると、か弱い少女を助ける、強く理想的な貴族でいられる。
自尊心が満たされるのだ。
エイルマーを守ろうとしたアリスに惹かれるのは、完璧な次期侯爵の像とはかけ離れてしまう。
アリスに勇敢さは必要ない。
けれど、惹かれる衝動を抑えきれず、婚約者を見捨てた自分への羞恥心も消えてくれない。
その結果――エイルマーは、アリスと剣姫を分離することにした。
自分でやったこととはいえ、無意識で、しかも四年半前のことだから、あいまいな部分が多い。
けれど、きっとこの分析は合っているのだろう。
「アリス……私たちは両思いだったのに……なぜ、婚約を破談に……? どうして、真実を話してくれなかったんだ……っ!」
そう叫んではみたものの、理由は明らかだった。
アリスは真実を話していたが、エイルマーのほうが強く否定し、聞く耳を持たなかった。
ヴァーミリオン伯爵が隠蔽し、エイルマーの母も野蛮な令嬢を認めない。
誰もが否定し、聞く耳を持たない状況で、真相なんて話せるはずがなかったのだ。
アリスを責められない。
悪いのは、当時の大人たちと、そして……。
「……ハーヴェイ殿下……」
半年前の宮廷舞踏会で、彼が言った言葉を思い出す。
『令嬢は未婚だよ。それに、彼女の心を手に入れることさえできれば、結婚になんら支障のない家柄の娘だ』
この言葉がきっかけで、エイルマーはアリスを捨てることを決意した。
確かに嘘ではない。
けれど、彼の言葉を信じ、別れを選んだ瞬間に、アリスの心が手に入らないことが確定してしまったのだ。
「誘導、された……。ハーヴェイ殿下に、すべて奪われた……」
事件資料に出てくる個人名は、本人が申請しなければ黒塗りにならない。
法の制定以降に発生した事件の関係者なら、最初から個人名の秘匿を願い出る可能性があるだろう。
けれど、一般に広く知られているわけでもない法制度を利用して、四年以上前の事件資料に今更修正を加えるのは不自然だ。
ハーヴェイがアリスにこの法を教え、そして申請させたに違いない。
「私が一生剣姫にたどり着けないようにするための……嫌がらせではないか……!」
ハーヴェイはアリスを白鹿騎士団に迎え、距離を縮めている。
その狡猾さを知って、憤りが収まらない。
(このまま、諦めてやるものか……っ!)
ハーヴェイにそそのかされて、間違った選択をしたアリスを取り戻す。
そのためにどうしたらいいのか、今度は慎重に検討する必要がありそうだ。




