6-5
条約締結直前に、帝国の過激派に襲撃され、瀕死の状態だった先代伯爵は、マルヴィナや現フロックハート伯爵に、復讐を願ったという。
けれど、現フロックハート伯爵は父の言葉を隠蔽してしまった。
先代伯爵は最後まで条約締結のために働き、息子に託した――そんな美しい、嘘の物語を創り上げてしまったのだ。
(美談にしてしまったフロックハート伯爵の行動は、悪いことなのかしら……?)
アリスは、いくら考えてもわからなかった。
年単位の交渉を行い和平を望んでいた頃の言葉と、到底冷静とは言えない死に際の言葉のどちらが正しいのか――答えを出せる人なんていない。
フロックハート伯爵は、襲撃事件発生前の父の願いを優先した。
それに納得できなかったマルヴィナは、家族にすら悟られないようにしながら、二国間の不和を生み出す機会をずっと狙っていたのだという。
当初マルヴィナは、王家が方針転換することを願い、匿名で嘆願書を送るなどの活動をしていたようだ。
けれど同じように帝国との戦で家族を失った者の一部が暴走し、パトリシアに嫌がらせをするようになってしまった。
そのせいで、反帝国派が危険分子であるという印象が強まり、マルヴィナは焦りを覚えていった。
それでも、王族を傷つける気はなかったそうだ。
卵が投げつけられたあの事件の少年に宛てた手紙の内容も、本当は嘆願目的だった。
王妃やパトリシアが子供を罰しない人柄だと予想したうえで、馬車の前に飛び出して、不幸な現状と戦う意志を訴えろ――という内容だった。
偶然王族の馬車を発見した体を装うことや、手紙を燃やす指示が書かれていたのに、少年には伝わらなかった。
伯爵令嬢のマルヴィナは、庶民の少年が正確に文字を読めないことを想定していなかったのだ。
本来、犯罪ではなくちょっとしたトラブルで終わるはずの事件は、大ごとになってしまった。
宮廷内に事件を主導した者がいるとして、本格的な捜査が始まる。
これによってマルヴィナは追い詰められ、大使訪問に合わせて今回の計画をくわだてたのだった。
帝国皇太子とパトリシアの関係が、ただの政略だけだったらよかったのかもしれない。
けれど二人の仲は良好で、パトリシアは皇太子への好意を隠さない。
帝国人への復讐心に囚われているマルヴィナにとって、それは耐えがたいものだった。
だから、パトリシアを傷つけることへのためらいが消えていったのだ。
これがマルヴィナが語った真相だった。
一つ救いがあるとするのなら、マルヴィナが毛布の上から刺した場所は、ふくらはぎのあたりだったことだろう。
髪が見えている状態で、動かない人形の急所をはずすはずがない。
彼女はパトリシアを傷つけるつもりはあっても、命まで奪おうとはしなかったのだ。
けれど、王族を傷つけることも、大使の随行者を襲撃犯に仕立て上げる計画も、国家を揺るがす重罪だ。
ハーヴェイの予想では、終身刑となる見込みだった。
それに伴い、フロックハート伯爵は外務大臣の役職を降り、謹慎することとなった。
マルヴィナ個人の計画であることと、フロックハート伯爵家のこれまでの貢献が大きいため、取り潰しにはならないが、なんらかの罰を受けるはずだ。
これで解決となったのだが、事件は宮廷内に暗い影を落とし続けた。
まずパトリシアが受けたショックは相当なものだった。
もしも彼女が王族でなかったとしたら、事件そのものを伝えないということもできたのだろう。けれど、責任ある立場の王族に、事実を隠しておくのは無理だった。
パトリシアはいつもどおりに振る舞っているが、夜になると不安になって、泣いてしまうことがある。
アリスは日中、彼女の侍女としてできるだけそばにいるようにしている。
夜はしばらく、王妃と一緒の寝室で眠っているのだった。
さらに第三部隊の隊員たちの中には、体調不良で休養せざるを得ない者が出ている。
隊長だったマルヴィナの人徳でまとまっていた部隊だから、仕方がないのだ。
ハーヴェイは休養の許可を出し、彼らの気持ちの整理がつくまで待つつもりだという。
そんな中でもジュリエットは、マルヴィナの悪口を言いながらいつもどおり任務に就こうとしていたのだが、ハーヴェイの判断で強制的に休ませることになった。
第三部隊が離脱しても、今は大使滞在中の大事な時期だ。
アリスも事件でショックを受けてはいるものの、パトリシアを気に懸けて、とにかく職務に励むことで、気持ちを奮い立たせている。
そして事件から四日後――。
アリスは、ハーヴェイと一緒に、ジュリエットを見舞った。
ハーヴェイは、休養しているほかの団員のもとへも様子を見に行っているらしい。
女性団員の屋敷を一人で訪ねるのは気が引けるから、一緒に……という提案があり、アリスは二つ返事で頷いたのだった。
ジュリエットを見舞いたい気持ちはあったけれど、アリス自身が彼女に嫌な役を押しつけてしまった気がして、ずっとためらっていた。
だからハーヴェイの提案はありがたいものだった。
不在のあいだは、ランドルとブラッドリーがパトリシアに付き添ってくれているので安心だ。
ハーヴェイが用意してくれた馬車で、ノックス男爵邸へ向かう。
ジュリエットは、なぜか準騎士の制服を着て、元気な様子で出迎えてくれた。
「ジュリエットさん……?」
屋敷で過ごしているはずなのに、汗をかき、髪が少し乱れている。
アリスたちがここに来る直前まで、剣術の稽古をしていたに違いない。
「ハーヴェイ殿下が休めっておっしゃるから休んでいるだけで、本当はすぐにでも職務に復帰したいんです!」
彼女はそう言うけれど、目の下のくまがひどいし、顔色が悪かった。
たった数日で、頬が痩けてしまった気さえする。
ジュリエットの背後に控える使用人も、心配してオロオロとしていた。
すぐに復帰したいというけれど、到底許可できる状態ではない。
「ノックス……。私の命令は、休養だったはずだが……?」
「私は……あの女に舐められたんですよ! 今すぐ強くならなきゃ……そうじゃなきゃ、いけないんです……。だから、ずっと稽古をしていました!」
そう訴える彼女の強がりは、見ていられない。
アリスがマルヴィナの行動を不審に思ったとき、真っ先に打ち明けた相手はジュリエットだった。
彼女はアリス以上に半信半疑で、むしろ仮説が間違っていたことを証明するために協力したのだろう。
結果として、アリスはジュリエットを巻き込んだ。
報告書で知るのと、実際に事件の当事者になるのとでは、衝撃が違ったはずだ。
ジュリエットは、彼女自身が寝室前を警備する日が狙われる予想をしていた。
アリスはそこまで考えていなかったけれど、これではまるでジュリエットを囮に使ったみたいだ。
「ジュリエットさん、ごめんなさい」
「なんで、アリスが謝るの? アリスはいつだって、正しいでしょう? あなたが疑問に思わなかったら、今頃どうなっていたと思っているの? 謝らないでよ……。悪いのは、裏切ったあの女と、侮られた私だもの……」
「でも……でも……っ、私……友達を悲しませ……っ、もっとやり方があった、かもしれない……のに……」
アリスには、配慮が足りなかったと思う。
マルヴィナが王家と騎士団を裏切る未来は変えられなかったかもしれない。
けれどせめて、特別親しかったジュリエットを担当からはずすように進言していれば、彼女個人が裏切られたと感じることはなかったのだ。
急に涙があふれてきて言葉にならなかった。
「なんでアリスが先に泣くのよ! 泣きたいのは……私なんだからぁ!」
ジュリエットもポロポロと涙を流し、そしてアリスに抱きついてきた。
あまりに勢いがあったものだから、二人でエントランスホールの床に膝をつき、そのまま声を上げて泣き続けた。
「私……っ! 思いとどまらせることができなかったの……。私や、第三部隊のことが大事で、復讐よりも優先したいって、フロックハート隊長に思わせることができていたら……」
「うん……でも、ジュリエットさんは……偉かったです……。無理に、好きだった人を悪く言わなくてもいいんですよ……」
「憎いんじゃなくて……ただ、悲しいの……。なんで、あんなふうにしか考えられないのよ……」
ジュリエットは、優しい女性だった。
裏切られても憎めずに、自分にもっとできたことがあったかもしれないと考え、後悔しているのだ。
それから一時間ほど、ジュリエットは泣きながらマルヴィナへの思いをアリスに話してくれた。
泣き止んだ頃には随分とすっきりとした顔になっていた。
涙の力は不思議だ。
アリスまで嫌な思いを全部吐き出して、心が軽くなった気がするのだった。
ジュリエットはその後、よく食べてよく寝て、あと二日は訓練をしないことを約束してくれる。
安心したアリスとハーヴェイは、ノックス男爵邸をあとにしたのだった。
馬車に乗り込んで宮廷まで帰る途中、アリスはハーヴェイに礼を言った。
「ハーヴェイ殿下。今日は……ありがとうございました」
「少しはすっきりしただろうか? ……アリス殿も相当無理していたと思うから」
その言葉を聞いて、アリスは確信した。
彼は女性団員の屋敷を一人で訪ねるのは気が引けると言っていたけれど、おそらくアリスのためを思って同行させたのだ。
(本当に、なんでも察してしまう方なんだわ……)
空元気が見抜かれて、気恥ずかしさを覚えたが、胸のあたりが温かくなる。
ハーヴェイの優しさは、いつもアリスの心を守ってくれている気がした。
「私も……きっともう、大丈夫だと思います」
「よかった。……いい機会だから、言ってしまうけれど、一つ、君に謝らなければならないことがある」
ハーヴェイが急に真剣な顔をしたので、アリスは身構える。
「なんでしょうか?」
「……じつは……じつは……あの日、咄嗟にアリス殿を呼び捨てにしてしまった……。本当に申し訳ない」
神妙な面持ちで頭を下げてくる。
アリスは当初、なんのことかさっぱりわからなかった。
そして、マルヴィナとの戦闘中に、確かに名を呼ばれたことを思い出す。
「あ……あれは! 声をかけてくださらなかったら、きっと私は今よりもっと後悔していたと思います。謝罪なんて……おかしいです……!」
あのときアリスは、戦いで気分が高揚し、強さを誇示するような行動をしてしまいそうになったのだ。
勝負がついていたのにマルヴィナを傷つけていたら、たとえそれが罪人となることが確定していた相手だったとしても、罪悪感に苛まれていただろう。
「では、許してくれるだろうか?」
「ハーヴェイ殿下がよろしいのなら、私はむしろ……普段から、敬称なんてないほうが嬉しいです」
「だが、君は私の恩人で……敬い、崇める存在だ」
ハーヴェイはよく信奉とか崇めるとか、そういう言葉を使う。
以前は恐れ多いと感じ、ただ困惑するだけのアリスだったが、今はなんだかモヤモヤとした感情に支配されている。
その理由も、だんだんとわかってきた。
「私にとってもハーヴェイ殿下は恩人です。自由になれる手助けをしてくださいました。そして尊敬できる団長です……それなのに、私だけ特別扱いされると、距離があるみたいで嫌なんです」
アリスは語気を強めきっぱりと言い切った。
「だが……私は……」
「ハーヴェイ殿下は、私の願いを、なんでも叶えてくださるのではなかったのですか?」
ハーヴェイがより困惑していくのが手に取るようにわかる。
自分でもずるい言い方をした自覚があったけれど、こうでもしなければ彼はずっとアリスを崇めてしまうだろう。呼び方は大事だ。
「うぅ……わかった。では、敬称をやめる……ことがあるかもしれないが、慣れないので確約はできない。……努力してみるよ……アリス……」
「はい!」
結局、馬車の中で、ハーヴェイがアリスの名を呼んだのはそれきりだった。
その後の会話は終始「君」で押し通し、ごまかしたのだが、一度でも呼んでもらえただけで十分だ。




