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それからの約一ヶ月。アリスは日々の訓練をこなしながら、大使滞在中の宮廷の警備計画を頭に叩き込む日々を送った。
昼間は侍女としてパトリシアのそばに控える予定だから、礼儀作法の確認も必要だ。
基本的に貴族の令嬢としてのマナーは学んできたし、それなりにできるつもりでいる。 けれど、宮廷内には役職ごとに特殊なルールがいくつかあり、それを覚えるのが大変だった。
(あと数日で、隠語をすべて把握しないといけないし……パトリシア王女殿下が会われる可能性のある方の名前とお顔の特徴を覚えなければいけないし……作法は、お辞儀の角度まで決まっているし)
例えば、側仕えのあいだで「ご不浄」という言葉は使えない。
その理由でパトリシアのそばを離れるときは「西の庭園へ行く」と言うのだ。
どうせ、側仕え全員が隠語を把握しているのだから意味がない気がするが、美しくない言葉は徹底的に排除される。
美しさを求める姿勢は、同じ宮廷内で働いている騎士とは大きく異なる部分だった。
大使の訪問にあたって、実際に会ったことのない、隣国からの客人の顔を文字で表せる特徴だけで覚える――というのも一苦労だ。
さらに、入団して以降、宮廷内では騎士としての立ち居振る舞いを徹底的に叩き込まれてきたため、動きがきびきびとしてしまう。
先輩侍女からは、そういう部分も注意されてしまい、見直しを求められた。
怒濤の準備期間が終わり、ついに大使出迎えの日がやってきた。
この日、都から一番近い宿場町に滞在していた大使一行が、ついに宮廷内へと入る。
宮廷内の大広間には、王族、大臣などの要職に就いている者、外交に携わる者、そして騎士たちが集まり、客人を歓迎した。
壇上に王族の席がある。
侍女のアリスはそのすぐ下の、いつでもパトリシアのもとに駆けつけられる位置で待機していた。
会場内の警備は、第一、第三部隊が中心となってになっているため、ジュリエットやブラッドリーもすぐ近くにいる。
楽団による演奏が響く会場内を進んできた大使一行が、王族の前まで進む。
演奏が終わり、会場が静まり返ったところで、大使代表の挨拶が始まった。
「私はヴァルシュタイン帝国の使者、ヨルク・フォン・バルヒェットと申します。アルヴェリアの皆様の、すばらしい歓迎に感謝申し上げます」
「遠路はるばる、よく来てくださった。アルヴェリア国王として、此度の親善により、両国の友好がさらに強固なものになることを望む」
大使の代表は、ヨルク・フォン・バルヒェット伯爵だ。
年齢は二十六歳で、亜麻色の髪をした上品な紳士だった。
彼は、伯爵と名乗っているけれど、次期公爵でもある。大貴族の場合、いくつも爵位を持っているため、家を継ぐ前に親の持つ爵位名を名乗るのだ。
(綺麗なアルヴェリア語……)
公用語はそれぞれ帝国語とアルヴェリア語である。文法は似ているけれど、発音がまるで違う。
そのせいで、ヴァルシュタイン帝国の人がアルヴェリア語を話すと、堅苦しく強い印象になるのだが、彼にはそれがない。
かなり語学が堪能な人物なのだとわかる。
(バルヒェット伯爵は、アルヴェリアに嫁いでいらした公爵令嬢の兄君なのよね……)
ブラッドリーの兄に嫁いだ女性の兄、という関係性をアリスは頭の中で整理しておく。
今回ヨルクは、宮廷内ではなくラドクリフ公爵家に滞在する予定となっている。それはきっと、異国で暮らす妹の様子を確認するためなのだろう。
その後、ヨルクがヴァルシュタイン帝国皇帝から預かってきたという贈り物の披露が行われた。
皇帝からは名産品でもある繊細かつ煌びやかなガラス製品の数々が贈られた。
さらに、皇太子がパトリシアのために用意したという美しい絹織物も持ち込まれる。
(パトリシア王女殿下……あんなに嬉しそうになさって……)
厳かな場ではあるけれど、このときばかりは皆が笑顔になった。
それから滞りなく歓迎の式典は進む。
初日は、このあとの昼食会のみで、大使一行に旅の疲れを癒やしてもらうことを優先した、余裕のあるスケジュールとなっている。
二日目は、王族との会談や、大規模な舞踏会。
三日目以降は、条約締結後に新たに浮き彫りとなった問題点を、外交官たちが話し合う予定だ。
これから昼食会の会場へ移動するタイミングで、なぜかヨルクが扉のほうではなくアリスたちが控えているところまでやってきた。
最初は、縁のあるブラッドリーに用があるのだろうと予想していたアリスだが、ヨルクが立ち止まったのはアリスの正面だった。
「……ご令嬢。私の名は、ヨルク・フォン・バルヒェット……。どうかヨルクとお呼びください」
「もちろん存じ上げております。私は……パトリシア王女殿下にお仕えしております、アリス・ホールデンと申します……」
戸惑ったまま、アリスは淑女の礼をした。
キラキラの笑顔で見つめられるが、理由がわからず、恐怖すら覚える。
「おぉ! パトリシア王女殿下の侍女殿でいらしたか。私の金糸雀とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「金糸雀……? それはちょっと……」
金色の髪から連想する比喩だろうか。
冗談なのか本気なのか伝わらない。ヴァルシュタイン帝国は情熱的な男性が多い国らしいので、とりあえず文化の差である――と、アリスは解釈してみた。
「……アリス殿に、恋人か婚約者はいらっしゃるのでしょうか?」
「え……?」
質問に答えられないまま呆然としていると、パッと手が取られる。
「いいや、これは失礼。あなたのような可愛らしいレディなら恋人がいて当然です。……あぁ、なんと無粋な質問を……」
恋人も婚約者もいないけれど、こんなにも多くの人が集まる場で宣言するのは恥ずかしすぎる。
大使に嘘はつけない。それでも、決まった相手がいない事実を告げたら、ろくでもないことが起きる予感はしている。
だからなにも言えずに硬直していると、突然後方にグッと身体が引っ張られた。
「大使殿……これはどういう状況だろうか?」
いつの間にかハーヴェイがそばにいて、アリスとヨルクのあいだに割り込んできた。
さらにジュリエットとブラッドリーから、後方へ下がるように目配せがある。
(た……助かったわ……)
ヨルクに悪意はないとわかるけれど、ひたすら対応に困る。
この場合、王族であるハーヴェイだけが頼りだ。
「……おや、もしや第二王子殿下のご婚約者様でいらっしゃったか?」
「断じて違う!! 彼女に恋人なんていないが、気軽に触れていい存在ではないのだ。初対面で少々図々しいのではないか? ……公の場をこんなことで乱すなんて……大使殿には恥という感情がないのだろうか?」
「恋人がいない? その口ぶりだと婚約者も……? でしたら、口説いても問題ないではありませんか。ヴァルシュタイン帝国の男は、機会を逃すことを人生における最大の恥としているのです!! 殿下こそ、どういう権限で私の邪魔をなさるのですか?」
温和なハーヴェイにしてはめずらしく、厳しい口調だった。
ヨルクはそんなことは気にしないと言わんばかりに、自信に満ちあふれた笑顔だ。
皆が二人に注目し、だからこそアリスは羞恥心で死にそうだった。
なぜしがない子爵令嬢が、こんなことで目立たなければならないのだろう。
「……権限? 彼女はパトリシアの侍女であるのと同時に、白鹿騎士団所属の準騎士だ。私は上官であり、そしてホールデン子爵家の者たちの次に、彼女のことを知っている自負がある」
「ホールデン子爵家の名は帝国にも知れ渡っております。……帝国では強い女性も好まれますよ。ぜひ、国際平和のために私と結婚を」
「軽すぎる!! 結婚とは互いをよく知ってからすべきものだ」
徐々にハーヴェイの声が大きくなっていく。
「それは一理ありますね。では滞在中、両国の友好を深めるのと同時に、アリス殿を知る機会にいたします」
「そのような機会はない」
「まだ彼女の人となりを知らないことが、諦める理由になるのでしょうか? ……上官が部下の恋愛や結婚に口を挟むのが、アルヴェリアの流儀なのですか?」
するとハーヴェイが言葉に詰まった。
沈黙がやけに長く感じられる。
「そうだな。……彼女には宮廷内での役割がある。邪魔をしないこと、そして彼女の意思を無視しないことを誓ってくれるのなら……私が介入すべき話ではない」
そのとき、アリスは胸のあたりに違和感を覚えた。
(どうして? ……なんだか、チクッとしたわ……)
ヨルクの言葉も、それを受けたハーヴェイの言葉も正しい。
今のやり取りのどこに、負の感情を抱く要素があったのだろうか。アリスは自分の心がわからないという、初めての経験をしていた。
「約束いたしましょう。……それではアリス殿、またお目にかかれる機会を楽しみにしております」
ヨルクは、立ちはだかる騎士たちの隙間からアリスのほうへ笑みを向けて、手を振り、颯爽と立ち去った。
大使一行が退室し、扉が閉まった瞬間に、会場内がざわつきはじめる。
貴族たちは困惑し、面白おかしく先ほどのやり取りを振り返った。
「ハーヴェイお兄様! どうして言い負かされているのですか! わたくし、がっかりですわ」
パトリシアが小走りで近づいてきて、頬を膨らませる。
「勝ち負けではない……あちらが正論だから……」
「もう! もうっ、もう。もぉぉう!」
よほど腹が立ったのか、パトリシアがハーヴェイの胸をドンドンと叩いた。
その様子を眺めているだけで、アリスの胸につっかえていたものがスッとなくなっていく。
(……いけない。いけないわ……。つまり私は、ハーヴェイ殿下を盾にしたかったんだわ。希望が叶わなかったから、変な気持ちになって……それで、私の代わりにパトリシア殿下が怒ってくれたから、満足してしまったの……?)
自分の心を分析し、アリスは戦慄した。
なんとなく苦手なタイプのヨルクから逃げるために、ハーヴェイを利用し、思うようにいかないから不機嫌になるなんて、あまりにも勝手だ。
アリスは完全に調子に乗っていたのだ。
何度も言い聞かせてきたのに、いつの間にかハーヴェイが自分のために動くことが当たり前だと勘違いしていた。これは、間違いなく罪だ。
「ちょっとアリス。……問題を起こさないでよ。公式行事なのよ……?」
ジュリエットの言葉が、落ち込んでいるアリスの胸に突き刺さる。
「でも……本当に、なにもしていないのに……」
公式行事を騒がせたのは事実だが、アリスは色目を使ったわけではない。
基本的にパトリシアを注視していたので、ヨルクとは目すら合わせていないのだ。
「……魔性の女、アリスちゃん……」
「ジュリエットさん! ひどい」
大使歓迎の式典は散々だった。
そのあと、二人の副団長と直属の上官であるヒュームからも「君が悪いわけではないけれど、気をつけろ」という、結局どうすればいいのかわからない説教をされてしまったのだった。




