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宮廷舞踏会の日が訪れた。
アリスは初夏にふわしい水色のドレスに真珠の首飾りを合わせ、髪を結う。
空気扱いのアリスにも、こういうときには仕度を手伝ってくれるメイドがつく。
父や義母は外聞を気にする性格だから、アリスは伯爵令嬢という立場に恥じない装いができるのだった。
日暮れ前には、黒の正装をまとうエイルマーが迎えに来てくれた。
夜の社交界用に、髪をきっちりと整えている姿と、キラキラした笑顔が素敵だった。
そういう格好をしていると、普段より大人っぽく見える。
「こんばんは……我が婚約者殿」
馬車からわざわざ下りてきて、仰々しく手を差し出してくる彼は、まるで王子様みたいだ。アリスは夢見心地になりながら、彼のエスコートで侯爵家の馬車に乗る。
「そのドレス、すごく似合っているね。……本当に綺麗だ……」
「あ……ありがとう……。エイルマーも、とっても素敵よ」
結婚式の延期も、恋人みたいなやり取りを続ける期間になるのなら、悪くないかもしれない。
アリスはそんなふうに前向きに考えるようになっていた。
エイルマーが十五、アリスが十四歳という、大人になりきれていない時期に婚約を結んだせいか、彼は恋人らしい行為をまるでしない。
紳士的なエスコート、記念日の贈り物、そして挨拶代わりの手の甲へのキス……くらいだろうか。
(結婚は延期になったけれど、せめてそういう部分はもう少し先に進みたい……なんて考えるのはわがままかしら……)
大人の社交場である舞踏会の夜だからこそ、アリスは期待してしまうのだった。
宮廷内の広間はすでに人々が集まり、賑やかだ。
ダンスが始まるまでの時間は、知人友人に挨拶をして回る。
楽団員が登場し、あと少しで舞踏会の開始となった頃……。
(エイルマー……さっきからどうしたのかしら?)
アリスは、エイルマーがキョロキョロと視線を動かしていることに気づいた。
まるで、なにかを探しているみたいだ。
「……誰かに会う約束でもしているの?」
問いかけると、エイルマーは少し困った顔になった。
「あぁ、そうなんだ。綿花の産地で有名な領地を持つ、ソーンウィック伯爵と話ができればいいと思っていたんだけれど……」
「事業に関わるお話をしたかったのね?」
昨今の貴族は、領地から得られる税だけで暮らしているわけではない。
資産を運用し、いろいろな事業を行うのが当たり前になっている。エイルマーが縫製工場の経営を始めようとしていることは、アリスも聞いていた。
その関係でソーンウィック伯爵と親交を深めようとしているのだろう。
「知人を通して、綿花に興味があることは伝えてあるんだが……。こうも人が多いと、めぐり会うのも一苦労だね。べつに約束をしていたわけではないから、気にしないでくれ」
今夜はアリスが楽しみにしていた舞踏会だ。
けれど社交の場は、遊ぶためだけの場所ではないはずだった。
貴族たちはこの機会に情報交換をして、人脈を作り、家を盛り立てるために戦っている。
だったら仕事の話をしたいエイルマーを尊重したかった。
「それなら、一曲踊ってから一緒に捜しましょう?」
舞踏会の始まりの頃は、会場の中央に人が集まり、踊らない人々もそちらに注目しているため、人捜しには不向きだ。
だからとりあえず一曲だけ踊って、そのあとは侯爵家の事業のためにエイルマーのしたいことを優先すればいい。
「ごめん……今夜はとことん君に付き合いたいと思っていたんだが……」
結婚を延期したことへの詫びだろうか。
そんなふうに気遣ってくれただけで、アリスの心は十分に満たされる。
「エイルマーったら。侯爵家当主としてのお仕事と、騎士団の任務を両方こなしているあなたを、私は尊敬しているし、お手伝いしたいの……」
「あぁ……アリスが婚約者でよかった!」
手を取り合い、ダンスの始まりを待つ者の輪に加わる。
まもなくして最初の曲が奏でられた。
今夜のダンスは一曲だけになってしまう可能性が高い。だからこそ、アリスはこの時間を目一杯楽しむことにした。
(最近、入団試験のために頑張っていたからかしら? ……なんだか、前よりもリードが力強いわ)
急に気恥ずかしさを感じる。
するとエイルマーがほほえんで見つめてくるものだから、アリスは余計に顔が赤くなってしまう、悪循環に陥った。
そうしてあっという間に曲が終わる。
アリスたちは約束どおり、ダンスの輪から離れ、そのあとは人捜しをした。
けれど残念なことに、ソーンウィック伯爵らしき人物には出会えなかった。
「今夜、出席しているという話を聞いたんだけれど、もしかしたら都合が悪くなってしまったのかもしれない。諦めるとしよう」
「残念だけれど、また機会はあるわ」
「ああ……」
その後、エイルマーは同世代の友人に呼ばれ、アリスのそばを離れた。
舞踏会に参加すると、だいたい二、三曲踊ったあとに同じ流れになるから、快く送り出し、アリスのほうも令嬢たちのおしゃべりの輪に加わる。
幸いにして、令嬢たちには具体的な結婚の日取りを伝えていなかったので、延期にされてしまった話はせずに済む。
楽しく会話を続けていたけれど、やがて令嬢たちの婚約者が一人、二人と迎えに来て、おしゃべりの相手がいなくなってしまった。
話し疲れて喉が渇いていた。
なにか飲み物をもらおうとして、飲食のために設置されたテーブルのほうへと向かう。
その途中で、三十代くらいの貴婦人に声をかけられた。
貴婦人は夫と思われる同世代の紳士と一緒だ。
「失礼ですが、アリス・ヴァーミリオン嬢でいらっしゃいますか?」
「はい、さようでございます」
「あぁ、よかった。わたくしレビー・ソーンウィックと申します」
「まぁ! ソーンウィック伯爵夫人でいらっしゃいましたか。お目にかかれて光栄です」
その名は、先ほどエイルマーから聞いたばかりだ。
「ぜひ、あなた様の婚約者のモーンフィールド侯爵様にご挨拶を……と思ったのですが」
エイルマーは「知人を通して、綿花に興味があることは伝えてある」と言っていた。
ソーンウィック伯爵夫妻も事業に関心があって、エイルマーを捜していたけれど見つからず、代わりにアリスに声をかけてきたのだろう。
「彼も喜びます。きっと親しい友人たちと一緒にいるのでしょう。のちほど、ご挨拶にうかがいましょうか?」
アリスがそう提案すると、恐縮しきった表情で伯爵が口を開いた。
「いいや、それには及びません。侯爵様がご友人と過ごされているのなら、お邪魔をするわけにはまいりませんし。広い会場ですから、またすれ違いになる可能性もありそうです」
「それもそうですね。……でしたら改めて、伯爵様にお手紙をお送りしてもよろしいでしょうか?」
「それはありがたい。ぜひ、よろしくお願いいたします」
「はい、承りました」
それからアリスは、ソーンウィック伯爵夫妻と二、三言葉を交わしてから、彼らのそばを離れた。
これで一応、エイルマーの婚約者としての役割は果たせただろう。
(でも念のため、ソーンウィック伯爵様が会場にいらしたことはエイルマーに伝えたほうがいいわね……)
彼のいそうなところには心当たりがある。
すでに立派な侯爵であるエイルマーだが、まだ十九歳だから、未婚の友人たちと一緒に気楽に過ごすことを好むのだ。
アリスから離れたときはその友人たちのところにいるはずだった。
(どうせ庭園の東屋あたりでしょう。知らせにいかないと)
男性だけの集まりに水を差すのは気が引けるが、勝手な判断で目当ての人と話す機会を奪うのもよくない。
そう考えて、アリスは一人舞踏室を抜け出し、庭園のほうへ向かった。
(本当は……けっこう下世話な話をしていることがあるから、行きたくないけれど……)
彼らは、平気で女性の品定めをしたり、婚約者の不満を挙げ連ねたりしてしまう。
これは女性だけの集まりでも同じことが言えるから、お互い様かもしれないが……。
東屋に近づくだけで、若い男性たちが大きな声でおしゃべりを楽しんでいるのがわかった。
酒を飲んで、声が大きくなり隠せない場合があるから、アリスは男性だけの集まりでどんな会話が繰り広げられているのかを知っている。
もっとも、婚約者を大切にしてくれているエイルマーは、聞き手になっているだけで、アリスの悪口など言わないはずだ。
「半年経てば正騎士になれる! これでようやく剣姫に近づけるんだ」
いつになく陽気なエイルマーの声が響いた。




