閑話 エイルマー・モーンフィールドのわずかな疑念
都の商業地区――賑やかだが、事件が多発する場所でもあるこの地区にあるのが、朱鷲騎士団本部だ。
エイルマーは騎士団本部で、今日も職務に勤しんでいた。
最近、アリスとの婚約を解消した余波で母が怒っているので、少々屋敷に居づらい。
朝食の席でも文句を言われてしまった。
「アリスさんのどこが不満だったの? 再構築は無理だとしても、きちんとした貴族の令嬢の中から新しい婚約者を選ぶべきですよ」
母親同士に多少の交流があったという理由で、結ばれた縁だった。
どうやら母は、アリスの母親の見た目が好きだったらしい。だから、母親譲りの金髪に可愛らしく健康そうなアリスを、息子の妻にしたかったのだ。
「母上、何度も言っているでしょう? 誰かと婚約するとしても、それは恩人との再会後にするべきなんです。あと半年待つだけですよ」
「恩人!? 剣術の腕前が侯爵家になんの利益をもたらすというの? あなたは侯爵なのよ……! 恩人だとか初恋だとか、どうでもいいの。……顔も知らない令嬢が、侯爵夫人に相応しい教養を持っているとは限らないでしょう?」
エイルマーを慕い、エイルマーの母親の言いつけを守り、それなりに賢いアリスは、モーンフィールド侯爵家にとって理想の花嫁だったのだろう。
エイルマーにも、アリスに対する好意はあった。
それは認めるけれど、心が揺さぶられるような情熱を、どうしても彼女に向けられなかったのだから仕方がない。
「侯爵は私です。……だから、母上がなにをおっしゃっても、決定権は私にあります」
この言葉で、母は黙るしかなくなる。
領地の管理など、侯爵としての仕事の一部を母に任せている身だから罪悪感を覚えるけれど、制度上、すべての権利はエイルマーにあるのだ。
そんな今朝のやり取りを思い出しながら、エイルマーは騎士団の備品発注の書類を片づけていた。
好きで始めた仕事ではないけれど、目標があるから頑張れる。
出来上がったところで、騎士団長に提出する。
朱鷲騎士団の団長は、ミッチェル・ノックス男爵だ。がっしりしているが、背は低めの紳士で、見た目どおりの堅実な性格の人だった。
「いやぁ……モーンフィールド君のおかげで、書類仕事の効率が上がるね。いつもありがとう」
「お役に立てて光栄です、ノックス団長」
エイルマーはとびきりの笑みを浮かべた。
貴族の序列としては、侯爵であるエイルマーと男爵のノックスのあいだには雲泥の差がある。
けれど騎士団は組織としての階級を重んじるから、エイルマーは格下のこの男に敬語を使わなければならないのだ。
(地味に苦痛だ。だけど、事務仕事の能力を買ってくれているのだから、団長とは良好な関係を維持しよう。コワモテのならず者やガラの悪い酔っぱらいを相手にするより、こちらのほうが私に向いている……)
もちろん都の治安維持のため、警邏活動もするけれど、準騎士にはこまごまとした書類仕事がよく任される。
このまま評価を上げていけば、正騎士への昇格までの期間を短縮できるかもしれなかった。
「そういえば、聞いてくれ。うちの可愛いジュリエットが……ここではなく白鹿騎士団に入ってしまったんだ!」
堅実なミッチェルは、娘を溺愛し、娘の話をするときだけ人が変わる。
同僚の話によれば、ジュリエット・ノックスはかなりのお転婆で「小さな猛獣」という二つ名で呼ばれているらしい。
将来有望な若手の団員数名が、ノックス男爵家で彼女と会ったそうだ。
おそらくミッチェルは、ジュリエットの夫候補を求めて、軽い見合いのつもりで団員を招いたのだろう。
そして招かれた団員の全員が、木剣で殴られて帰ることになった……という伝説がある。
「それは、団長としては残念かもしれませんが、喜ばしいことでもありますよね?」
正直、猛獣が朱鷲騎士団に来なくてよかったというのがエイルマーの本音だが、もちろん顔には出さない。
「自分の力を試すのに父親が団長を務めている組織では嫌だとか……健気だよなぁ」
「努力家なんですね、娘さん」
「そうなんだ。……そういえば、同期にホールデンの娘もいるらしい。ジュリエットが珍しく『馬鹿正直でわりと強い子!』って褒めていたから、相当な実力者なんだろうな」
(ホールデン? アリスの母方の家系で、団長がいつもライバル視しているあの家か……)
そのときエイルマーはふと疑問に思った。
婚約の解消により、生家と決別したアリスがホールデン子爵家に入ったという情報は得ている。
そして、ホールデン家には娘なんていなかった。
アリスのいとこといえば、筋肉の塊――ランドル・ホールデン一人のはずだ。
ということは、猛獣と呼ばれるジュリエットが褒めていたホールデンの娘は、アリスなのだろうか……。
(まさか、ね……。知らないうちに、ほかにも養子を迎えたんだろうか?)
アリスはか弱い、可愛らしい令嬢だ。
生家での立場が弱く、エイルマーが守ってあげないと、蔑ろにされてしまうかわいそうな娘である。
(事件の直後、剣を手にして素振りをしていたけれど……)
剣姫に嫉妬したアリスは、嘘をついた。
第二王子を暗殺しようとした者を倒したのは自分だと主張したこともあるし、以前から剣術を習っていたという突拍子のないことも言っていた。
全部、婚約者を奪われたくなくて必死に取った行動だろう。
素直で、努力家で、エイルマーと侯爵家のために努力するアリスを好ましく思っていた。
けれど剣姫に近づく必要はない。
きっと剣を振り回しても美しく見える人物なんて、剣姫以外にいないのだ。
アリスが真似をしたら、野蛮な令嬢になってしまうかもしれない。
そう考えたエイルマーは、剣を携えていたアリスをたしなめた。
だから彼女が剣を扱えるわけがないのだ。
「ノックス団長。……そのホールデン子爵家の娘というのは、なんという名でしたか?」
はっきりさせておきたい気持ちに抗えず、エイルマーはたずねた。
「あぁ、最近養子に入ったという……なんだったかな? ジュリエットは『よい子のなんとかちゃん』……って言っていたが……」
「アリス……」
「そうだ! アリス・ホールデン。間違いない」
(アリスが白鹿騎士団に入れるほどの剣の使い手? そんなわけがない……)
十四歳まで彼女が暮らしていたのは、騎士を輩出する家系であるホールデン子爵家なのだから、不自然とは言えない。
ライバルであるノックス男爵家の娘も幼い頃から剣を握って、男性団員を倒している。
だとしたら、事件の直後にアリスが言っていた言葉は本当だったということになりはしないか。
エイルマーは猛烈な違和感を覚えた。
「モーンフィールド君? なんだか顔色が悪いが、どうかしたのか?」
「い、いいえ……大丈夫です。次の書類を……」
エイルマーは席に戻り、別の書類をパラパラとめくった。
けれど、まったく集中できない。
(あの子が、義母と対立した理由はなんだった……?)
なぜ急にそんなことが気になったのか、自分でもわからない。
義母の言いつけを守らないから、伯爵家を出されたという話は、確かに聞いていた。
そのときの会話を思い出そうとすると、頭痛がしてくるのだ。
記憶の一部が黒く塗りつぶされている感覚だった。
(婚約者であるアリスは、私に守られるべき存在だったはず……。そうだ! きっと剣姫に近づきたくて、あとからこっそり剣術を習いはじめたのだろう……そうに決まっている)
そこまで考えて、とっくに縁が切れたアリスのことばかり考えていた自分に腹を立てる。
宮廷舞踏会では、酒が入っていたせいもあり、修道院に行かせる――などと言ってしまったが、あれは本心ではない。
エイルマー自身、婚約解消となるその日まで、アリスと離れる未来の想像ができていなかった。
剣姫と再会し、彼女の人となりを知ったときに初めて、アリスとどうなるべきかについても、おのずと見えてくるものだと思っていた。
だから、エイルマーはあの日まではアリスを、きちんと婚約者として扱っていた。
この国で、重婚はできないことなど知っている。
それでも「モーンフィールド侯爵の婚約者」という立場が彼女を守っていたのだから、その恩恵を素直に受けていればよかったのだ。
(私はアリスを守ってあげた。四年前の事件でも、そのあともずっと。……婚約者としても尊重していたじゃないか!? それなのにアリスは恩を忘れて去ってしまった。もう彼女のことを考えるのはよそう)
伯爵令嬢から子爵令嬢に身分を下げ、侯爵との縁談がなくなったせいで行き遅れが確定してしまったアリス……。
彼女は、相変わらず哀れな令嬢のままだ。
すでにエイルマーが気にかける価値などない。
それなのに、わずかな疑念はくすぶったままだった。




