3-6
騎士団本部の廊下をハーヴェイと一緒に歩く。
「ここだ……」
やがてたどり着いた扉を開けると、消毒薬の独特な香りが鼻をかすめた。
(医務室……?)
どうしてハーヴェイがこんな場所に来たのかを疑問に思いながら、アリスは促されるまま医務室に入る。
「そこに座りなさい」
上官からの命令は絶対だ。
ハーヴェイを立たせたままでいることに罪悪感を覚えたけれど、アリスは素直に従った。
「白鹿騎士団本部に医師は常駐していないんだ。手当ての心得がある者は多いし、重傷の場合は宮廷医に診てもらうからね」
そう言いながら、ハーヴェイは棚から包帯などを取り出して、机の上に置いていく。
(まさか……)
アリスはなんとなく、右手で左手首を押さえ、負傷している部分を隠した。
緊張のせいでアリス自身も意識していなかった痛みが、今更ぶり返してきた感覚だ。
怪我を報告しないのならば、誰にも悟られるべきではないというのに……。
ハーヴェイは苦笑して、アリスの向かいに腰を下ろす。
「観念して、手当てを受けておきなさい」
「はい、殿下……」
彼はアリスの隠し事などお見通しだった。
アリスは袖口のボタンをはずし、手首を彼の前に晒す。
自分でも確認していなかったのでわからなかったが、かなり腫れていた。
(私、本当に至らない、未熟な人間だわ……)
今日は不出来な自分を痛いほど思い知らされた。
落とす前提の試験ではなかったから騎士にはなれたけれど、完璧にはほど遠い。
ブラッドリーには勝てなかったし、ジュリエットのような思い切りのよさもなかった。
考えてみればこれまで、テレンスやランドルに剣術を習ってきたものの、彼らとは差がありすぎて、対等な誰かと競い合った経験は皆無だ。
そして今も、隠そうと思っていた負傷をたやすく見抜かれた。
ハーヴェイはアリスの手を取り、関節の様子を確認してから湿布を貼って、包帯で固定していく。
第二王子という立場にありながら、かなり手際がいい。
こういうことまで学んでいるのだ。
「折れてはいないだろう。二、三日は左手を使わず、安静に。入隊までに治すことが君の責務だと心得ておきなさい」
アリスは頷いた。
油断すると痛みと悔しさで泣いてしまいそうだ。
それこそ騎士らしくない行動になってしまうから、グッとこらえる。
「誰にも気づかれていないと思っていました……」
「同じ流派だから……というのも、大きいかもしれない」
「ハーヴェイ殿下はすごいです。剣術を本格的に習いはじめたのは、四年前のあの事件がきっかけだったんですよね? それなのに見抜くなんて」
テレンスに剣術を習っているという共通点があるから、構えや打ち込みの際のわずかな変化に気づいたのだろう。
ハーヴェイは一流の剣技を持っていて、洞察力に優れている。
たった四年の鍛練で、そこまでの力を身につけた彼は、本物の天才であり努力家だ。
「守られているだけの自分が嫌だったから。……うん、これでよし」
手当てが終わると、ハーヴェイはまくってあった袖を下ろし、器用にボタンまで留めてくれた。
「ありがとうございました。……それから、怪我について報告せずに申し訳ありませんでした」
「いや。試験をやり遂げる自信があるのなら、報告の義務はない。君に非のない事故での負傷だとしても『逃げ』だと思う者がいたかもしれない。対戦相手のブラッドリーは本気を出せなかっただろう。なにより君は負傷を言い訳にしなかった。だから君は間違っていない。……次回から、任務に支障をきたすと感じたら、必ず報告するように。ここまでが団長としての私の見解だ」
「団長としての……?」
ハーヴェイは困った顔をしていた。
試験の最中、感情が読み取れずに距離を感じていたのが嘘みたいだ。
「個人的には見ていられなかった。無理をしてほしくないし、いつまで経っても手当てを受けたいと言い出さないから、苛立ってしまったよ」
相変わらず、ハーヴェイはアリスを恩人として気遣ってくれている。
贔屓はしないと言った手前、試験が終わってから声をかけてきたのだろう。
(怒っていたように見えたのは、そのせいだったの……?)
「とにかく、騎士団長としてこれからも君に厳しくするつもりだ。だとしても、過去の恩を忘れたわけではない。それを覚えていてくれ、アリス殿」
エイルマーや生家から離れる手助けをしてくれたことと、推薦人になってくれたことで、十分に恩は返してもらっているのだけれど、きっと彼はまだ同じ主張を続けるのだろう。
(ハーヴェイ殿下は……強くて、優しくて……義理堅くて……本当にすごい方なんだわ。……だったら私は、これから騎士団員として、この方のお役に立たなければ!)
アリスが遠慮しても、これからもハーヴェイは私的な部分で手助けをしてくれるに違いない。
それならば、騎士のアリスは、ハーヴェイや王家のために働いて、過剰な恩に報いたらいい。
そうすれば、今のような一方的な関係ではなくなる気がした。
(そうよ……私もこの方を信奉しましょう!)
アリスは以前に言われた「信奉者」という言葉を思い出していた。
むしろアリスのほうが彼を崇めるべきだった。
すでに、尊敬する心は自然と芽生えていた。
これから上官となる彼に、最大級の敬意を持つことは、間違った感情ではないはずだ。
手当てが終わると、ハーヴェイは手際よく片づけを始めた。
アリスも立ち上がり、手伝おうとしたのだが、目が「怪我人は余計な事をするな」と言っている気がして、なにもできなかった。
棚に手当ての道具をしまうハーヴェイの後ろ姿を眺めながら、アリスは思い切って、彼に話しかける。
「あの……! 一つお願いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだろう?」
「私のことを『アリス殿』と、敬称をつけて呼ぶことはおひかえいただきたいのです」
じつは、入隊試験中にも彼は何度かその呼称を使っていた。
ブラッドリーやジュリエットなど、ほかの新人にはそんな呼び方をしない。
「そ……そうだな。準騎士に敬称をつけるのは……確かによくない。改めよう」
片づけを終えたハーヴェイが、アリスのほうへ向き直る。
「はい! 今後はどうか呼び捨てになさってください」
「呼び捨て……か。恩人を呼び捨てにするなんて、少し抵抗感があるが……君が望むのなら、そ、そうしよう。……ア、ア……ア……」
ハーヴェイの頬がわずかに赤くなっている。
なんとなく「アリス」と呼ぼうとして、できずにいるのがわかった。
(私ったら、なんて気が利かないの?)
おそらくハーヴェイは、女性の名を敬称なしで呼ぶことができないのだろう。
実際、貴族間の常識では、よほど親しい間柄でもない限り、年頃の男女が名前で呼び合う慣習はない。
アリスとしては、立場上呼び捨てが望ましいと思っていただけで、姓でも名でもどちらでもかまわない。
けれどランドルがいるから、名で呼ぶように強要したことになるのだ。
「あの……! 殿下は、ランドル兄様のことを『ランドル』か『ホールデン副団長』と呼ばれているのですよね?」
図らずも恐れ多い発言をしてしまったアリスは、慌てて代替案を考える。
「かしこまった場では『ホールデン副団長』と呼んでいる」
「ですから、私のことはただの『ホールデン』と呼んでいただければ、姓が一緒でも混同することはないと思います! 私と兄様が一緒にいるときは『ホールデン準騎士』とか……」
妙案だと思ったのだが、すぐには同意してもらえなかった。
ハーヴェイは目を丸くして、しばらく沈黙してしまう。
「どうなさったのですか? 私、なにかおかしなことを申し上げましたか?」
「いいや、なにも変ではないな。……うん、わかった……。だが、私的に君の名を呼ぶときは『アリス殿』でいいだろうか?」
「恐れ多いことですが、お好きにお呼びください」
「そうさせてもらう。……それでは、ホールデン。今日はご苦労だった。来週から騎士として励むように」
「はい! ありがとうございました」
最後にもう一度敬礼をして、アリスは医務室を出た。




