2-3
暗殺者と思われる男が、鈍く光るなにか――剣を振り上げた。
アリスは咄嗟に駆けだして、少年と一緒に横に転がるかたちで斬撃から逃げる。
「うぅっ。……私は、いいから……にげ、なさい……」
倒れた衝撃で、傷のある場所を刺激してしまったらしく、少年が悶絶した。
アリスは迫る暗殺者の顔に、思いっきり地面の砂を投げつけて、時間を稼ぐ。
「うぉぉっ、このガキ……っ!」
「立って!」
そのあいだに少年を無理矢理立たせ、走り出す。
呆然としていたエイルマーもハッとなって、一緒に駆けだした。
けれど急に、アリスたちの進路を黒い影が塞いだ。
敵は一人ではなかったのだ。
「エイルマー……逃げ……」
前方の敵に一番近かったエイルマーが、最初の標的となった。
エイルマーは斬撃から身を守ろうとして、腕を切られてしまう。
「あっ、あぁっ! 血……血、血がぁぁぁ!」
叫びながら、傷を押さえ、地面に転がる。
後方の敵も目をこすりながら追いついてきて、万事休すだった。
(このままじゃ……)
アリスは無我夢中で、後方の敵に突進した。
敵が目をこすり、まだ回復していない様子を見せたから、倒すとしたらそちらしかなかったのだ。
蹴りを繰り出して、剣を跳ね上げ、それを奪う。
そしてためらうことなく、敵の胴に向かってその剣を振り下ろした。
人と打ち合いをするときは、防具を着けて木剣で行う。真剣で斬るのは、藁で作った的だけだった。
それとは違う、未知の手応えを感じた直後、黒っぽいなにかがアリスのドレスや顔にかかった。
(血……私が……人を斬って、血が……)
黒だと思ったのは、きっと日暮れが近い時間だったからだ。
アリスはもう、なにも考えられなくなりそうだった。
無心で踵を返し、もう一人の敵と対峙する。
「ア、アァ……アリス……」
エイルマーが苦しそうにアリスの名を呼んだ。
「大丈夫、あなたのことは、私が守るから」
彼のほうを見ないまま、アリスは迫り来る敵の一撃を受け止める。
最初の敵は、令嬢に剣を奪われる予想などできずに油断していただけだ。
暗殺を生業としていると思われる男は、やはり強かった。
二撃、三撃目で手が痺れ、剣を落としそうになってしまう。
(せめて……毎日の鍛錬を続けていれば……!)
結局、致命傷は免れたけれど腹部に傷を負ってしまった。
不思議と痛みは感じないが、恐怖で心臓が破裂しそうだ。
それでもアリスが負ければ、この場にいる三人全員が死んでしまうのだから、立ち続けるしかない。
「ハッ。手間をかけさせやがるっ!」
男がニヤリと笑い、剣を高く掲げた。
やはり大人に勝てるほど強くはない。剣術を習っていたからこそ、実力の違いがわかってしまった。
この相手には、絶対に勝てない。
アリスは死を覚悟したのだが……。
「ギャァァァッ!」
鈍い音と共に、敵の顔に黒くて丸いものが当たって地面に落ちた。
アリスは隙を見逃さず、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
「ガァッ!!」
奇妙な声を上げて、敵がうずくまった。
敵が倒れている場所に、血の水たまりができていく。
アリスは放心状態で、その様子を眺めていた。
「……アリス、のこと……私が、守らなきゃ……いけないのに……っ、なんで……なんで……こんな……うぅっ!」
消え入りそうな声で、そうつぶやいたのはエイルマーだ。
アリスはハッとなり、すぐに彼のもとへ駆け寄ろうとした。けれど、一歩踏み出した瞬間に、足がカクンとなって、地面に膝をつくことしかできなかった。
「エイルマー……」
その場で彼の名を呼ぶけれど、エイルマーはアリスのほうを見てくれなかった。
地面に倒れたまま、ぶつぶつとなにかを言い続けている。
「君、大丈夫……?」
急に肩が掴まれた。襲撃を受けていた少年が心配そうにしながら顔を覗き込んでくる。
おそらく彼が、敵に向かって石を投げ、隙を作ってくれたのだろう。
黄昏時でもわかるほど、顔色が悪い。怪我も酷く、アリスよりもずっと重傷で、彼が立っていられることが不思議なくらいだった。
「……私は……大丈夫、です……」
少年の言葉を繰り返すようにして、そう答える。けれど実際には、自分が置かれた状況がよくわかっていなかった。
滴るほどの出血を伴う怪我を負った経験など、アリスにはないのだから。
遠くから、白い制服をまとう騎士が駆けてくる。
宮廷を守る白鹿騎士団の者だ。ようやく、助けが来たのだ。
「殿下! ハーヴェイ殿下!!」
騎士が必死で呼びかける。怪我を負った少年は、第二王子ハーヴェイだった。
そのことに驚く暇もなく、アリスの緊張の糸はプツンと切れ、そのまま意識を失った。
◇ ◇ ◇
「信じられません! アリスさんが人を……人を……斬った……なんて」
「落ち着きなさい、ロバータ。相手は重傷だが、生きている。人殺しになったわけじゃないんだから。王家の方々も、賊を撃退した者の名を伏せてくださると約束してくださった」
「でも、返り血をあんなに浴びて……。あのおぞましい姿が目に焼き付いて離れません。こんなことなら、伯爵家に戻さなければよかったのよ!」
父と義母の騒がしい声により、アリスは無理矢理起こされてしまう。
意外にも、自分が置かれた状況がどういうものかすぐに把握できた。
(ここは宮廷内かしら? もう朝で……。脇腹と腕が痛い……。第二王子殿下を狙った暗殺者を、私が撃退したのよね……?)
父の言葉からも、あの出来事が夢ではなかったとわかる。
そのあいだも、ロバータは義理の娘を批判し続けた。
(だったら……あのまま子爵家にいたかったのに……)
煩わしくなり、アリスはどうにか声を出そうとした。
「……お父様。……エイルマーと……第二王子、でん、か……は、ご無事、ですか?」
声はかすれてしまったが、なんとか父に届く。
父は無表情、義母は汚いものでも見るかのような視線を、アリスに向けてきた。
「お二人とも、怪我をされているが……命に別状はないと聞いている」
「そうですか……」
怪我をしているのは知っていた。だから命に別状はないという言葉を聞いて、アリスはほっとする。
アリス自身も怪我をしていて、妙に眠かった。
きっとまだ休息が必要なのだと思い、そのまま目を閉じる。
「アリスさん! ……あなた、なんてことをしてくれたのかしら? ヴァーミリオン伯爵家の令嬢が剣で人を傷つけるなんて」
「でしたら、お義母様は……無抵抗のまま、第二王子殿下やエイルマーと一緒に死ねばよかったと……おっしゃるのですか?」
ロバータがわざわざ近づいてきて、大きな声をあげるものだから、休むことができない。
そのせいで、今日のアリスはかつてないほど不機嫌だった。
「アリスッ、ロバータはおまえの評判を気にして言っているんだ。それがどうしてわからない?」
「私の怪我よりも評判を気にする方の気持ちは……わかりたくありません……。すみません、もう……出ていってください。まだ、怪我が痛んで……つらいので」
父は不満そうにしていたが、アリスはそれ以上話を聞かずにそのまま目を閉じた。
痛みのせいで悪夢を見るとわかっていても、回復には睡眠が必要だ。
アリスはそれからさらに一日、ほぼ眠った状態で過ごしたのだった。
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