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1-1 忘れられた初恋

 伯爵令嬢アリス・ヴァーミリオンは、婚約者の屋敷を訪ねていた。

 今日は、三ヶ月後に予定されている結婚式の段取りを話し合うはずだったのだが……。


「私はどうしても、初恋の『剣姫』が忘れられない。だからあと半年、結婚を延期できないだろうか? 心の整理がついたら、必ずアリスだけを大切にするから」


 若き侯爵、エイルマー・モーンフィールドが、アリスとの結婚を延期するのはこれで二度目だ。

 アリスは紅茶のカップを静かに置き、一度深呼吸をした。


(また……初恋の剣姫を優先するのね……?)


 正直に言えば傷ついているのだが、顔に出すわけにはいかなかった。


「ええ……わかったわ。父には私から伝えておきます」


 格下の伯爵家では、侯爵家に逆らえない。

 そして、事実をそのまま報告したとしても、アリスの父は結婚式の延期を了承するだろう。

 父はアリスに対し無関心で、問題を起こさなければどうでもいいと思っている人なのだ。


 父が娘に冷たい理由は単純だった。

 アリスの実母は病で亡くなっており、のちに迎えた後妻がアリスを嫌っているからだ。

 ヴァーミリオン伯爵家では、父と義母、十歳の弟の三人だけが家族で、アリスは透明人間になっている。

 とくに虐待されているわけでもないから、なんの問題にもならないし、こんな話は貴族の家ではめずらしくもない。


「ありがとう。……アリスは本当に私の理解者だよ。君と最高の結婚式を挙げるためにも、いい準備期間になると思うんだ。半年経ったら動きはじめて、だいたい九ヶ月後くらいに盛大な結婚式をしよう!」


 そう言って、エイルマーはまなじりを下げた。

 明るい茶色の髪に、榛色の瞳を持つ青年は知的で美しい容姿をしている。

 気品のある振る舞いも、向けてくれる笑顔も、アリスは大好きだった。


 彼は、命の恩人でもあり、初恋の相手でもある剣姫に執着し、捜し続けていることを除けば、アリスに対して誠実だ。本当にすばらしい青年と言える。


 家族の中で孤立していた頃、優しくしてくれた彼のことを、アリスは特別に思っている。

 だからこそ彼の気持ちを尊重したかった。


 それでも少しだけ、気になることはある。


「ねぇ、エイルマー。……もし剣姫が見つかったら、私たちの結婚はどうするつもりなの? 破談にするつもり?」


「私はそんなに薄情な男ではないよ。……ただ剣姫に会って、初恋を終わらせたいだけなんだ。既婚者になったら、やましい気持ちではなかったとしても、妻以外の女性を捜すという行為そのものが不貞にあたると取られかねない。誰よりも妻となる女性に誠実でいたいんだ」


 確かに、既婚者となったら初恋を語ることすら不誠実になってしまう気がした。

 エイルマーの言葉はもっともだ。


「……私、エイルマーの真面目なところが好きよ……」


 そう言ったアリスだが、本当は一刻も早く結婚したかった。

 若くして侯爵としての重責を背負うことになった彼を、そばで支えたい。

 なによりもアリス自身が温かい家庭というものに憧れている。


 けれどそれらは、アリスの勝手な心情だ。

 家族とうまくいっていないから、逃げ場を欲しているだけのこと。

 貴族の令嬢なら十八歳で結婚している者も多いけれど、早いほうではある。

 自分の事情を相手に押しつけて、結婚を急かしてはダメだった。


(焦る必要はないわ。……それに申し訳ないけれど、エイルマーは絶対に剣姫とは再会できないんだから)


 エイルマーの初恋は四年前。相手は、剣を振るい賊から身を挺して守ってくれた勇猛果敢な同世代の少女だ。

 じつは、その少女が再びエイルマーの前に現れることはない。


(だって、剣姫は私だもの……。信じてもらえなかったけれど)


 アリスは無意識に脇腹付近にある古傷に服の上から触れた。

 今ではすっかり薄くなったものの、それこそがエイルマーを守ったときにできた傷だった。


 実母が存命の頃、アリスは剣術を習っていた。

 けれども実母の死後、父や義母から令嬢らしからぬ趣味は恥ずべきものだと言われてしまい、アリスは特技を隠すようになった。

 エイルマーと顔合わせをしたのはその時期だったから、彼はアリスの特技を知らない。

 そしてエイルマーは事件のときに追った怪我と精神的ショックの影響で、当日のやり取りの一部を忘れている。

 彼は、命の恩人のうしろ姿しか覚えていないのだという。


 ほかにも様々な偶然と誤解があり、アリスが真実を告げても、彼にはまったく信じてもらえなかった。


 けれど、それでよかったのかもしれないと今では思う。

 アリスは命の恩人だからという理由ではなく、純粋に人として彼に好きになってもらえたのだから。


「こんな話をして悪かったね。……来週の宮廷舞踏会は精一杯、婚約者殿をエスコートさせていただくよ」


「それは楽しみ。期待していいのかしら?」


「もちろん」


 エイルマーは現在十九歳。

 彼の父親である先代侯爵が亡くなったため、一年前に若くして侯爵となった。

 年齢的に侮られることもあるだろうに、彼は立派に当主としての役割を果たしている。

 さらに志の高い彼は、このほど都の治安を守る朱鷲(しゅしゅう)騎士団に入隊し、準騎士となった。

 二人の結婚を急いだのは、先代侯爵夫人であるエイルマーの母の希望もあった。

 家を継いだ者がいつまでも独身でいるのはよくないし、準騎士の務めもあるエイルマーの負担を分散する目的で、当主の補佐ができる妻を必要としていたのだった。


 けれどそれは、エイルマー個人の希望ではなかったのだろう。

 それならば、半年の延期くらいどうってことはない。


 彼が誠実であること、そして結局彼の初恋の相手が自分であるという事実が、アリスに心の余裕を与えていた。


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