第5話 冷徹なる慈愛と未来への決断
「お腹の子供は、貴方の……いえ、松島家の子ですね」
夫は玄関の敷居を踏み越え、半歩進み出たところで硬直したままです。その顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいます。
「そ、そうだ。すまん……」
まぁ、流石に認めましたね。私は妾へと視線を動かしました。
「退職金は僅かですがお渡しします。しばらく、細々と田舎で暮らすには、十分な額を用意しましょう。あの女中、いえ、お母様と静かに過ごしなさい」
きっと、この様子を玄関の影にでも隠れて見ているのでしょう。
そっくりな顔でしたから、お茶を出されたときに、すぐ気がつきました。お嬢さんも、昔からお茶を入れるのが下手でしたからね。
悪阻がひどかったのか、娘を心配して来たのかもしれませんね。
「待ってくれ!香里奈!」
私の言葉を否定したのは、夫の方でした。
「二度は申しません。出て行きなさい。これ以上、この家の格式を汚すことは許しません」
夫は尻尾を踏まれた犬のような顔をしています。しかし、妾は黙ってうなずきました。
夫の助けを求めるような、期待すらしていないのかもしれません。その気潔さは好感が持てます。
「お世話に、なりました……」
「さ、里子」
まったく、情けない声を出すもんではありません。
「ただし、子供は松島の家で育てます」
私の言葉は、氷のように冷たく、一切の容赦を含みませんでした。
夫は、その言葉の意味を理解できないかのように、私の顔と妾の顔を交互に見やっています。
「奥様、どうか……、それだけはご勘弁ください!」
はじめて声を荒げました。必死な形相です。
「退職金はいりません!どんな償いでもいたします!ですから、この子は私が育てます!どうか、この子だけは、私の手から奪わないでください!」
母になろうとする女の声は強く、その叫びは、まるで魂の根底から絞り出されたようでした。
土埃にまみれた彼女の手が、必死にお腹を庇い、その瞳は絶望と懇願に揺れ動いています。
その必死さには、私の胸も痛みました。
ええ、冷徹などと言われても、私だって、母の腹から産まれた人間ですからね。
「お願いします!この子だけは」
私には決して与えられなかったもの――。
我が子を守ろうとする、母の強さ。その姿に、心を揺さぶられないはずがありません。
しかし、ここで情に流されるわけにはいかない。私は松島家の女主ですから。
「情けなどありません」
私は深く息を吸いました。
「ただし――」
そして、明確な響きを伴って言葉を続けました。
「半年後、子が産まれたらここへ戻りなさい。松島家の子供の、乳母としてあなたを再雇用します」
私の言葉に、ゆっくりと顔を上げました。
瞳にはまだ大粒の涙が滲んでいますが、その奥に、僅かな光が宿ったのが見て取れます。驚きと、信じられないというような表情が混じり合っていました。
「え……?」
その声は、震えながらも、私の言葉の真意を測りかねているようでした。
「さきほど、どんな償いでも受けると言いましたね?」
「はい」
「子の母であることを、決して口にしてはならない。生涯にわたり、実の母として接することは叶いません。それが、不貞の代償です」
「奥様……」
「半年後、ここにいるのは、私と夫の子供です」
私の言葉は、決して甘いものではありませんでした。
それは、彼女の犯した罪に対する、厳しい裁きです。
しかし、そこには、生まれたばかりの幼い命を、世間の好奇の目や不貞の汚名から守ろうとする、私の確固たる意志が込められていました。
彼女の瞳から再び大粒の涙がこぼれました。
今度の涙は、悲しみだけではない、安堵と、かすかな希望が混じっているようでした。
母であると口にはできなくとも、子のそばにいられるなら――。彼女が欲したのは、その僅かな救いだったのでしょう。
「立ちなさい。体が冷えると、お腹の子にもよくありません」
私の声かけに、いっそう頭を下げると、
「あ、ありがとうございます……」
土が妾の涙で色を変えていきました。声はも身体も震えています。
私は彼女を立たせようと手を伸ばし、ふと、やめました。
それは、私の役目ではありませんね。
いまだに何も言えずに、ただ立ち尽くしているだけの夫に、視線を投げました。
「なすべきことを、しっかりなさってくださいな」
私の決断が正しいのかどうか、誰にも分かりません。
世間が、この裁きをどう評価するかなど、知る由もございません。
私の実家や、藤堂家の人々はどう思うでしょうか。
しかし、私は信じます。この選択こそが、不貞によって引き裂かれかけたこの家を、そして何よりも、生まれたばかりの幼い命を、世間の風当たりから守る唯一の道だったと。
――次回、第5話へ続きます。




