第3話 圧倒的に有利な立場ですが
「もう一度、お聞きしますね」
私の声に、応接室の空気がぴんと張り詰めます。
丸々とした夫は、視線を彷徨わせながら、汗をぬぐうばかり。
テーブルの上の茶器は冷え切り、淹れたばかりの茶も不味くなっています。
壁の片隅に掛けられたガス灯が、チリチリと音を立てるばかりで、この重苦しい沈黙を破るものはありませんでした。
「先ほど私を迎えたご婦人は、どなたでいらっしゃいます?新しい女中を雇ったなど、聞いておりません」
「そ、それは……」
言葉を濁す様子で、すでに答えは出ています。妻を欺くほどの才覚は、この人にはありませんから。
「繰り返しますが、松島家の女主人は私です」
「そのとおりだ」
「使用人の管理も私の務めです。たとえ私が、今は藤堂家にお仕えしている身であっても、なんの報告も無く、人を無断で雇うなどあり得ません」
「す、すまん」
「この家の格式を保つことこそ、私の役目ですから」
私の言葉に、夫は縮こまり、椅子の上で大きな身体を小さく見せました。
――ああ、まったく。
どうして私はこの人と結婚したのでしょう。
いえ、この人もまた、私と結婚せずに済んだ方が幸せだったのかもしれません。
少なくとも、彼は誰かを従え導くには、あまりにも頼りなさすぎます。
「そんなに、怒らなくてもいいじゃないか。キレイな顔が台無しだよ」
「怒ってなどおりません。それに、無駄な褒め言葉は不愉快なだけです。私は、ただ事実を問うているだけです」
夫の視線が泳ぎ、沈黙が応接室を支配します。やがて私はため息をひとつ吐き、核心に触れました。
「妾はどちらにいるのです?」
その瞬間、夫の丸い顔がさらに丸く歪みました。池の鯉のように、声もなく口をパクパクさせます。
「……あ、あの、その……」
「正直にお答えください。瑠璃子お嬢様の旦那様、聖人様に会って、ペラペラとお話になったのは、いったいどの口でいらっしゃいますか?」
後先考えずに話してしまうほど、嬉しかったのでしょうね。
例え落ちぶれた士族でも、松島家の跡取りを望む気持ちは、彼も同じなのですから。
「ご、ごめん……」
小さく頭を下げられました。
「離縁なさいますか?それとも、その妾を屋敷から追い出しますか?」
私の問いに、夫は唾を飲み込む音を響かせました。
「り、離縁なんて……できないよ」
――やはり。
せめて「妾と子を守りたい」とでも言えば、わずかに見直したかもしれません。
けれど、この人はそれすら言えません。想像通り、いや、想像を下回る情けなさです。
「では、話は以上ですわね」
私はきっぱりと言い放ちました。
「あ、待ってくれ!」
松島家には、金銭的な余裕はございません。
私が藤堂家で得る給金こそ、この家を支える大事な収入源なのです。
玄関に飾られた、色褪せた錦絵のように、この家の栄華も過去のものなのです。
時代の流れは早く、努力なくして廃れていく士族の多いこと。松島家もその類いでした。
私もまた、武家の血を引く者ですが、松島家よりは大きく、今ではお父様は実業家として汗を流しております。
私もまた、藤堂家にお仕えすることで、自立の道を模索してまいりました。
結婚にあたり、支度金と花嫁道具は、それなりのものを用意いたしました。
実家から援助を受け、松島家を支えてきたこともございました。
子供を産めない嫁にも関わらず、義父母が私に「離縁せよ」と迫らなかったのは、その事情があったからに他なりません。
「今後は、勝手な判断は控えていただきます。例え女主人である私が不在でも、報告と相談だけは怠らぬように」
「わ、分かったよ。すまない」
夫はなおも笑みで取り繕おうとしますが、その笑顔に誠実さは感じられません。
いっそ怒鳴り散らすか、拳を振り上げるかしてくれた方が、まだ人間らしいというのに。
「それでは、ごきげんよう」
これ以上言葉を交わしても、互いのためになりません。
汽車の時間までに、私にはまだ、やるべきことが残っていますから。
――次回、第4話へ続きます。




