第2話 冷えた夫婦の再会
東京駅を発った汽車は、初夏のにおいを風に乗せながら、のどかな田園風景を抜けていきました。
背もたれの固い椅子は長時間の旅には酷なもの。景色を眺めるのにも、そろそろ飽きてきました。
やることもなく、心の内を見つめ直す時間となりました。
――なぜ、いまさら帰らねばならぬのか。
松島家には、私が「帰りたい」と思う理由など、何ひとつありません。
夫婦関係はすでに崩壊しています。
17歳で松島家嫁いだものの、私が子を授かることはありませんでした。
義父母の無言の期待、医師の冷たい診断、そして幾度も打ちひしがれた夜。
母となれぬと悟った私は、やがて自ら夫に願い出て、奉公先の藤堂家へ戻ったのでした。
私にとって、藤堂家はもはや実家といえる存在でした。
『もちろんだ、君の好きにしたらいいよ』
夫はそう言ってくれましたが、あれは解放の言葉であり、諦めの声でもあったのでしょう。
帰省の催促も次第になくなり、義父母も病に倒れ、松島家は今や傾きかけた旧士族の一邸宅。
残された夫ひとりに、私はほとんど心を寄せることができずにいたのです。
◆◆◆
「香里奈様、お待ちしておりました」
駅前には、松島家に古くからいる使用人がいました。小さな鞄を手渡すと、怪訝そうな顔をされました。
「お荷物は、これだけで?」
「ええ。長居するつもりはありませんので」
腰を落ち着けるつもりなど毛頭ないのです。
手土産すら買わぬままの無粋な帰省。義父母が健在であれば、少しは違ったのでしょう。今となっては誰も咎める者はいません。
「さぁ、早く行ってくださいな」
夕刻発の切符もすでに手元にあるのです。
車窓からは土埃の舞う街道、瓦屋根の集落、そして一面の田畑。空気は澄んでいて、東京とは違うゆるやかな時間が流れていました。
やがて、松島邸に到着。
かつてより傾きが目立ちましたが、庭のつつじは満開で、庭師の働きぶりにだけは安堵いたしました。
「や、やぁ、香里奈。帰って来たのか」
玄関先に立っていた夫は、以前にも増して丸々とした姿てで、私を出迎えました。
士族の面影などどこへやら。出会ったときは、そこそこ見られる容姿だったはずですが……。
「相変わらず、君はきれいだね」
結婚当時なら頬を染めたでしょう。
「お元気そうでなによりですわ」
今の私はただ淡々と返しました。
松島家の応接室は、畳の上に厚手の絨毯、その上には無理やり置かれた洋机と椅子。和洋折衷といえば、まぁ、そうなのでしょう。
簡単に申せば、私の趣味ではございません。
「急に帰ってくるから驚いたよ」
「ここは私の家でもあると思っておりますが、帰宅に許可が必要でしたか?」
「そ、そんなことはないさ。ここは君の家だから」
夫は額に汗を滲ませ、笑みで取り繕おうとします。けれどその笑顔は、かえって後ろめたさを滲ませるだけ。
「そうだ、瑠璃子様はお元気かい?」
「もちろんです。大変よくしていただいておりますから、ご心配なく」
つかの間の静寂。
「先日、浅草にいらしたとか?」
「え? あ、あぁ……芝居を観に行った、かな」
「東京にいらしたなら、声をかけて下されば良かったのでは?たまには、藤堂様へご挨拶をしてくださらないと」
視線が泳ぐ。
浅草で誰と会ったのか、すでに私は聖人様の口から聞いております。
「き、気が利かなくてすまない」
まったく。気が利かぬのは昔からです。
「それに……聖人様に会ったそうですね」
「あ、ああ」
滝のような汗が頬を伝う。隠し事が下手すぎます。
私は息を整え、正面から夫を見据えました。
「先ほど、門で私を迎えた、あのご婦人はどなたです? 新しい女中を雇った覚えはございませんが」
「えっと、あの……、臨時で雇ったんだ」
夫の顔色が、みるみる青ざめていきます。
「茶番はもう、結構です」
帰りの汽車の時間もありますからね。
「本題に入りましょう」
茶葉の香りもしない、不味いお茶を前にして、私の声だけが応接室に響き渡ったのです。
――次回、第3話へ続きます。




