第1話 侯爵令嬢の右腕がママになる?
皆様、ごきげんよう。
私の名は松島香里奈と申します。士族の出身です。侯爵家の一人娘、藤堂瑠璃子様の教育係として、働いております。
瑠璃子様は、見目麗しい容姿に優雅な身のこなし、そして聡明な才をお持ちの方。
帝国大学をご卒業されるほどの勤勉さを備え、さらには長刀の腕前まで達者でいらっしゃる。
文武両道、非の打ちどころのない、まさに完璧な淑女にご成長なさいました。
私は時々、周囲から「瑠璃子様の右腕」などと、畏れ多い呼び名をいただくこともございます。
とんでもないことです。
私の力など微々たるものにすぎません。すべては、瑠璃子様ご自身の、揺るぎない努力の賜物なのです。
それにもかかわらず、女性であるという理由だけで、瑠璃子様は藤堂家の跡を継ぐことはできません。
藤堂家には、嫡男がおりません。そのため、瑠璃子様の結婚相手として、名家のご次男・聖人様が婿養子として迎えられたのです。
聖人様は、もし「お馬鹿さん選手権」が開催されたならば、間違いなく優勝候補に挙がるでしょう。そう、愛すべきお馬鹿さんなのです。
スラリとした長身、欧米人のように彫りの深い顔。白い歯を輝かせて笑うその姿は確かに爽やかですが、中身は残念としか、申し上げようがないのです。
さて、そんなある日の午後。
瑠璃子様が何より大切にされている、午後のティータイムのひとときのことです。
アール・デコ様式のティーセットを並べたサンルームには、窓から初夏の陽射しが差し込み、遠くのラジオからは流行歌が微かに聞こえていました。
その日の気分を読み取り、的確な茶葉を選んで差し上げる。それも私の役目です。
紅茶を注ぎ、芳醇な香りが漂う瞬間、私はこの仕事に携われる幸せを噛みしめます。
「やぁ、レディ達。僕も仲間に入れておくれよ」
突然、陽気な声と共に聖人様が現れました。
眩しい笑顔と共に椅子へ腰掛ける姿は、大型犬がじゃれつくようでもありました。
「わたくしの大事なティータイム、邪魔はなさらいでと何度も申し上げましたのに」
優しい顔から一転して、瑠璃子様の眉がぴくりと動きます。
ですが、聖人様は怯むことなく、まるで子供のように笑っておられる。
「聖人様もご一緒にいかがですか?日本橋で仕入れた焼き菓子もございます」
夫婦円満は藤堂家のため絶対不可欠。ここは私が取り繕いました。
「わぁい、ありがとう」
子供じみた口調もまた彼の常。
聖人様には「熱い」という感覚はないのでしょうか。豪快にお茶を飲み干します。
ぷはぁ、と一息つくと、そして次の瞬間、あまりに唐突な一言を放ちました。
「ところで、香里奈さんは、いつママになるの?」
まもなく、三十路になる私に向かって言いました。
悪気など一欠片もございません。けれど、言葉は時として刃にもなるのです。
「聖人様、どういう意味でございましょう?」
「そうよ、香里奈がどうして母親になるの?」
私と瑠璃子様、同時に問い返しました。しかし、聖人様は首を傾げて、のんきに続けます。
「この前、浅草の劇場で、松島さんに会ったんだよね」
瑠璃子様の眉が上がりました。松島とは、おそらく私の主人のことでしょう。
「劇場?それは、どなたとご一緒だったのか、ぜひ教えていただきたいわ」
「え?あーー、誰だったかなぁ。あはは」
ああ、聖人様のイケナイご病気が発症しているようです。
「それでね、松島さん、子供ができたって喜んでたよ。ようやくパパになれるってね」
瞬間、凍りついたのは、私ではなく瑠璃子様でした。
淑女にあるまじき、ティーカップをガチャンッと置く行為。そして、震える手を握りしめながら言います。
「暇を出すわ」
ポツリと呟かれました。
「お嬢様……なんとおっしゃいましたか?」
「香里奈、たまには松島家へ帰りなさい」
その声には、言い訳を許さぬ凛とした響きがありました。
もちろん理解しています。これは追放ではなく、優しさからくる言葉。
けれども、避けては通れぬ過去に向き合わせるための、厳しい愛情でもあるのです。
「ありがたく、お暇をいただきます」
こうして私は三年ぶりに松島家へ帰る決意をいたしました。
――次回、第2話へ続きます。




