最終話 深夜のティータイム
その日の夜、私はなかなか寝つけませんでした。
強がってみても、夜になれば一抹の寂しさが襲うものです。
私は窓辺に立ち、広大な庭を見下ろしました。夜の闇に包まれた庭園には、風に揺れる木々の葉ずれの音が、もの悲しくささやいています。
そのとき、コンコン、と控えめなノックの音がしました。
こんな時間に訪れるのは、一人しかいませんね。
「はい」
ドアを開けると、そこには寝間着姿の瑠璃子様。
両手でしっかりと枕を抱え、少し恥ずかしそうに、うつむいています。
「瑠璃子様、どうなさいました?」
「眠れなくて……」
「まぁ、どうぞお入りくださいませ」
まだ幼い頃を思い出します。
不安なことがあると、瑠璃子様は私の部屋を訪れてきました。もちろん、旦那様や奥様には内緒ですよ。
他愛もないおしゃべりをしては、いつの間にか、共に眠りについていたものです。
瑠璃子様が大人になってからは、すっかりなくなりました。
「香里奈の部屋に来るのは久しぶりだわ」
瑠璃子様は照れたように、はにかみます。枕をぎゅっと抱き、うつむく姿の愛らしいこと。
「瑠璃子様、夜のティータイムに、お付き合いいただけませんか?」
私が尋ねると、パッと顔を上げ、とびきりの笑顔になりました。
「ええ、喜んで!」
私は、木箱をテーブルに置きました。中には、艶やかな小豆色の羊羹。瑠璃子様は興味深そうにそれを見つめます。
「まぁ美味しそう!」
「正人様には内緒ですよ」
瑠璃子様は少女のように頷きました。
湯呑みに注がれたばかりの日本茶から、ふわりと立ち上る香りが部屋を満たしました。深い緑色の水面に、柔らかな灯りが揺れました。
「香里奈が淹れてくれたお茶が一番ですわ」
瑠璃子様がそう言って、心底幸せそうに目を細めます。その言葉は、私にとって何よりのご褒美でした。
この静かな時間が、どれほど私の心を癒してくれることでしょう。
「それで、松島でのことは……、どうでしたの?」
羊羹を一口頬張った後、瑠璃子様は心配そうに、しかし落ち着いた声で尋ねました。
「そうですね、どこから話しましょうか」
私は、松島家で起こったことの一部始終を、包み隠さず語りました。
夫の不貞、女中の妊娠。そして私が下した、あの冷徹ともいえる決断。
瑠璃子様は、私の話を静かに、しかし真剣な表情で聞いてくださいます。時折、湯呑みに視線を落としながら、深く頷かれました。
語り終えた私に、瑠璃子様はそっと微笑みかけます。
「香里奈は、本当に慈悲深い決断をしたわね」
私の心を深く肯定してくださいました。
瑠璃子様ならば、きっと私の選択を理解してくださると信じていました。その確信が、今、現実のものとなります。
「そうおっしゃってくださると、心が軽くなりますわ」
「生まれてくる子どもは、松島家の子で、香里奈の子ではないわ」
「ええ、そのとおりです」
ティータイムが終わると、瑠璃子様は立ち上がらず、私の布団を指差しました。
「今なら、気持ちよく眠れそうよ」
「それは、なによりです。寝不足はお肌の大敵ですからね」
瑠璃子様は少し悪戯っぽい笑顔で答えます。
「そうよ。だから、今夜は香里奈と一緒に寝るわ」
「え?」
瑠璃子様は、私の布団に潜り込みました。
「仕方のないお嬢様だこと」
私も隣に身を横たえました。
瑠璃子様の温かい体温が、すぐそばにあります。幼い頃と変わらない、安心できる香り。
「もし、もしもよ?」
瑠璃子様が、天井をじっと見つめながら、ぽつりと呟きました。
「なんです?」
「もしも、私に子供が生まれたら……。最初に、香里奈に抱いてもらいたいわ」
なんということでしょう。
「瑠璃子様……、恐れ多いことを、おっしゃらないでくださいな」
その言葉に、私の胸は大きく震えました。
「だって、私のお産には、必ず香里奈はいてくれるでしょう?きっと、ずっと手をつないで、励ましてくれるのでしょう」
「ええ、そうですね。ずっと、お傍におりますと」
「私の子を、抱いてあげてね」
それは、私が生涯をかけて夢見ていること。
瑠璃子様は、私の秘めたる心を、全て見透かしていたかのようでした。
その瑠璃子様がいつの日か母となられ、その御子を私の腕に抱かせてくださる日が来るかもしれない。
血の繋がりはなくとも、この手で幼子を抱き、慈しみ、そして未来を担う立派な人間に育てる。
侯爵家の血筋を受け継ぐ、次代を豊かにする御子を育むこと。
それが、私に与えられた天命だと深く信じています。
松島家の茶番に幕を下ろしました。
あちらも『どうぞお幸せに』と思うのです。私の幸せとは道が違えど、それでいいのです。
私の心は完全に切り替わりました。迷いは、もう一切ありません。
やがて、瑠璃子様の寝息が聞こえました。穏やかな寝顔を見つめながら、私はそっと目を閉じます。
今夜は、きっと良い夢が見られるでしょう。
そして、その夢の続きを、私は必ず現実にいたします。
皆様、それでは――、ごきげんよう。
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