第9話 隠された杯
十度目の八月十二日。
外は曇天。今夜は満月が雲間に顔を出すかもしれない。
私はその瞬間を待っていた。
午前、リオネル様は領主会議のため屋敷を離れていた。
私は地下書庫に忍び込み、古い木箱を探し出す。
その中に――儀式に使う銀の杯があった。
内側には褪せた赤黒い染みがこびりついている。
触れた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
百年前の記憶がまた一瞬だけよみがえる。
エリシアが、この杯を胸に抱えながら涙を流していた場面――。
夕刻。
黒猫アルタイルが廊下で私を待ち受けていた。
「お前、本気でやるつもりか」
「ええ。この日を終わらせるには、それしかない」
アルタイルは尻尾をゆらし、低くため息をついた。
「リオネルに知られれば、お前を止めるだろう。だから……俺は何も見なかったことにする」
夜。
雲間から満月がわずかに顔を出した。
私は杯に赤い液体――自分の血を数滴落とし、儀式の言葉を小声で紡ぎ始めた。
「――我が名を捧げ、彼の命を繋がん」
杯を唇に運ぼうとした、その瞬間。
ガシャン――!
杯が床に叩き落とされ、赤い液が石畳に飛び散った。
「……何をしている」
そこに立っていたのは、蒼白な顔のリオネル様だった。
「俺を生かすために死ぬ? そんなものは、誓いでもなんでもない!」
私は声を失い、ただ彼の手の中で震えていた。