第19話 血筋の鎖
翌朝、リリアは早くから身支度を整えていた。
普段は革鎧に動きやすい服装だが、この日は淡い青のドレスに身を包んでいる。
胸元には小さな銀のペンダント――彼女が唯一手放さなかった、母の形見。
「本当に行くのか」
アルタイルが問いかける。
リリアはわずかに頷き、視線を外す。
「……私が行かないと、扉は開かない」
馬車で向かった先は、中環区でも一等地にある屋敷街だった。
整えられた庭園、豪奢な門、門番の鋭い視線――
僕は息苦しさを覚えた。
ここは外環区とは違う、何もかもが静かで、冷たい。
屋敷の門が開き、初老の執事が現れた。
リリアを一目見るなり、その顔が引きつる。
「……お嬢様。お帰りになるとは」
「帰ったわけじゃないわ。話があって来ただけ」
僕たちは屋敷に通された。
壁には由緒ある家系の肖像画が並び、空気は重く、香水の匂いが鼻を刺す。
奥の間で待っていたのは、壮年の男――リリアの父、アストリア公爵だった。
「リリア……お前がこの家を捨てた日から、数年ぶりだな」
「家を捨てたんじゃない。あなたたちが私を“道具”としてしか見なかったから出て行ったの」
公爵の目が細くなる。
「道具ではない。お前はアストリア家の血を継ぐ者だ。その血筋こそが力であり、責務だ」
ハルドが口を挟む。
「公爵、我々は入札に関する情報を求めている。貴族たちが何を取引しているのか、知っているはずだ」
公爵は冷ややかな笑みを浮かべた。
「なるほど、外環の反乱者が我が家に何の用かと思えば……。答える理由はない」
リリアが一歩踏み出す。
「じゃあ、私が参加するわ。アストリア家の名を使って」
公爵の表情が変わった。
「……お前にその覚悟があるのか?」
「ある。だって、これ以上あんたたちの腐った宴を黙って見ていられないから」
短い沈黙の後、公爵は重々しく頷いた。
「いいだろう。ただし条件がある」
「条件?」
「入札が終わったら……お前はこの家に戻れ」
リリアの拳が震える。
だが、ハルドがわずかに肩を叩いた。
「飲め。これは交渉だ」
唇を噛みしめ、リリアは頷いた。
屋敷を出たとき、リリアは無言だった。
その横顔は、戦場での彼女とは違う、どこか弱く脆いものに見えた。
「大丈夫か?」と声をかけると、彼女はかすかに笑った。
「大丈夫じゃない。でも……やるしかない」
その日から、潜入の準備が始まった。
リリアのドレスや宝飾品、僕たちの変装、そして会場の構造――
すべてが、嵐の前の静けさのように整っていった。