7.襲来
一方その同じ頃。
どこまでも続く、爽やかな朝なお暗い細路。それは建ち並ぶ小さく粗末な建物群の中まるで迷宮のごとく曲がりくねったり分かれ道があったり。奥へ行けば行くほど自分がどこにいるのか皆目見当すらつかなくなるほどの、尋常ならざる幻惑の世界――。
「……」
そんな都市の喧騒とは余りにもかけ離れた冷ややかなる静寂を一人足音微かに進んでいるのは、言うまでもなくあの紫の瞳持った美しい青年ヘファイスティオン――ソフィー言うところのファイ、である。彼は先ほどロイドたちと別れた後もなお薄気味悪い衆生区の裏道からは離れていなかったようで、その身はどこか儚げながら、しかし同時に力強い歩みも生み出している。そう、まるで行くべき道がはっきりしているかのごとく、その足取りが止まる様子は微塵もなかったのだ。
真の目標ついに見定めた、孤高の静かなる修行者のように。
とはいえ周囲の甚だしき暗さはそんな喩えたちまち忘れさせるくらい陰鬱で、すなわち彼が一体どこを目指しているにせよ、それがあまり光の当たる場所だとはとても思えず――。
「!」
それゆえふいにファイが道の先でその一つの人影認めた時、途端尋常ならざる胡乱な空気が流れたとしても、その事態に決して何一つ奇妙なことはなかったのだった。
「よお、どこへ行くんだ?」
目の前に立ちはだかったその人影は、冷たい笑み口許へ浮かべてどこか嘲るように言った。全身黒ずくめで、スマートかつ逞しい体躯した、それは生きている影とでもいうべき怪しげな男だ。
しかも明らかにどこまでも非友好的な。
当然ながら、そのただならぬ気配嗅ぎ取りファイの眼も途端鋭利なものと化す。
そう、特に相手の黒き眼光が怖気を来すほど剣呑な色であったとすれば。
「……待ち伏せか? ご苦労なことだな」
「む?」
「だがあいにく、俺としては大した用もないんだが。――特に初めて会って名乗りもしない奴とは」
――もっとも、そんな油断ならぬ正体不明の男前にしても、先ほどロイドたちに見せたのと同様ファイが冷ややかな態度崩すことは欠片もない。いや、むしろそれはさっさとそこをどけと言い放っているがごとき、状況考えればげに恐るべき対応ですらあったのだ。
さすがの黒ずくめも、その予想外の口ぶりに知らず気を昂らせたのが当然だったような。
「……なるほど、それは大変失礼した。もっとも、今は名無しのままでいさせてもらおう。何せ今日は、単なる腕試しで来ただけなんだ」
「腕試し、だと?」
「ああ、アーレムの外からやって来た錬金術師の。そうだろ、お前ら?」
すなわち冷え冷えした笑み絶やさぬまま眼光さらに殺気含んだものへすると、男は次の瞬間ふいにファイの背後へ呼び掛けていたのである。
「へへ、そういうことさ」
「……しかし一体どんな奴かと思ったら、えらい優男じゃねえか」
途端二つの、明らかにまだ若い男の声招き寄せて。
当然それはファイを束の間背後へと振り返らせ、そして彼はそこに、まさに退路を塞ぐようにして二人の男がいつの間にか立っているのを確認したのだった。
ひょろりとカマキリのように細長い男と、対照的にずんぐりした背の低いもう一人を。
「――逃がすつもりはないということか」
もっとも相変わらず青年の声には微塵も感情の揺らぎ見えなかったのだが。
「何、多少痛めつけて、あんたが何しにこのアーレムへ来たか教えてもらいたいだけさ。さっき会っていた子供たちのことも含めて。もちろん殺すまでは――」
「お前こそ、昨日霧の中で何をしていた?」
「っ!」
かくて黒衣の男はあくまで余裕の表情現していたのだが、しかしファイの返答はそんな彼の予想を覆すほどのもののようであった。すなわち、それは黒衣のみならず、背後の二人にもたちまち隠しようのない緊張の波走らせていたのだ。
「しかもこそこそ隠れて」
「……そうか、気づいていたのか。俺があの広場にいたことに」
むろん、特に黒衣となるとその驚愕並大抵のものではなかったらしい。
「笛の音とともに、黒い影を見た。あれは間違いなく、ボルグに何らかの指示を出しているものだった」
「……」
「そして最近この街で頻繁に起こっているらしい、ボルグ出没事件。あれとも、お前たちは何か深い関係が――」
「そこまでにしておけ」
……すなわち彼に、いや仲間らしき二人にも、次の瞬間それぞれの物騒極まりない得物、つと取り出させていたのであるから。
そう、正対する黒衣は剣呑な輝き放つダガーを、そして背後に立つ二人のうちカマキリは長い鞭、ずんぐりは二対の奇妙極まる飛び道具――大型ブーメランを。
かくして一瞬で緊張の度が極限の高みまで跳ね上がった、静寂の支配する裏路地……。
「どうしてもやるつもりか?」
とはいえそんな中、ただ一人ファイだけは右手を胸の辺りに掲げながらまるで冷静な様相変わらず、
「ふん、大した度胸だな。――だがそう余裕ぶっていられるのももう終わりだ!」
「よし、いくぜ!」
「覚悟しな、異国人!」
――刹那、はたしてその様に痺れ切らしたか、黒衣が荒々しき絶叫一下疾風のごとく凄まじい勢いで駆け出し、さらに後ろの仲間も即座に呼応すると、ついに朝の空気の中謎めいた三人組の奇襲は開始されたのだった。
「どうした、隙だらけだぜ!」
ダガー片手に、目にも止まらぬ速度で一挙に相手との間合い詰めていく黒衣。もちろんファイを挟んで向こう側には、彼と志同じくする二人が決して退路作らせぬよう道を塞いでいる。まさしくこれで生意気な錬金術師も袋のネズミ、すなわちこの陣形こそが彼らの最も得意とする必殺の戦法。どれだけ手練れの戦士向こうに回しても、決して後れをとることなどない。
はたして勢いファイを取り巻く包囲網は速度を上げて瞬く間に狭まって行き……。
そして鋭い刃、強靭な鞭、狙い正確なブーメランがまさに青年を無慈悲にも屠らんとした、
「な、何!」
「うおお?!」
――だが、そのまさに、次の瞬間。
「エーテルか、しかし何という光量だ!」
轟き渡ったのは、なぜかファイではなく、黒衣の男の驚愕で限りなく満ちた絶叫だった。
そう、三位一体の攻撃繰り出そうとしたまさしくその寸前、青年が右手より高く掲げ解き放ったのは、彼らの視界一杯を突然満たし尽くした、鮮烈極まる青の光。
しかも思わず黒衣が両手で目を覆わなくてはならなかったほどの、ついぞ経験したことのない凄まじき輝度で。
「し、しまった、眼が!」
――それゆえ余りの眩しさに彼らは知らず、げに無防備な状態までさらしていたのである。
「!」
何よりその瞬間、隙を突いて至近距離へ豹の如き飛影が高速で走り迫って来ても、黒衣にはどうしようもなくただ苦鳴漏らす、僅かそれのみしか為す術がなかったのだから。
そうして彼はそれでも何とかダガー突き出し応戦しようとするも――。
「何だと?!」
しかし錬金術師はまるでそんな襲撃者をあざ笑うかのように、無防備な男へ何一つ攻撃加えることなくそのまま凄まじい速度ですぐ傍ら、さらに道の彼方へと向かって駆け去って行ってしまったのだった。
「どうなってんだ、畜生!」
「やりやがったな!」
そのすぐ後に、男たちの驚愕かつ悔しげで満ちた声だけを取り残して――。
◇
「くそっ」
数分の後、気づけば光の消えた暗い道は、再び元のかそけき静寂取り戻していた。
戦の跡というべきか、あの秘密のベールに厚く包まれた青年の姿はもう幻のようになくなっている。彼の放ったエーテルも、もはや何一つ、そう男たちの記憶以外には波動も何も形跡がない。
かくて後に残されたのは、裏街の纏うどこかじめついた昏い空気と、そして三人のまだ年若き襲撃者たちだけ。むろん彼らは彼らで呆然としばしその場にただ立ち尽くしており――。
「――お、おい、どうする?」
ゆえにその内の一人、カマキリが黒衣へいまだ戸惑いの色濃く声をかけてきたのも、実際はともかくそれから大分時が経ってからのことのように思われたのだった。
「あの野郎……」
「!」
「舐めた真似しやがって」
すると途端返ってくる、仲間でさえも怯むものあった、憎悪で満ち溢れた言葉。何より、黒衣の瞳は憤怒と屈辱でどこまでも烈しく凶光輝かせている。
その余りの迫力に知らずカマキリがなだめようとしたのは必然だったくらいに。
「お、落ち着けよ、キルヒト」
「俺を簡単に斬れる間合いまで近づきながら、何もせず走り去っていきやがった……。畜生、情けでもかけたつもりか?!」
だが、対して黒衣の男が怒気を和らげることは微塵もない。
彼はむしろ、自らの裡に芽生えた火を噴く怨念にたちまち全身囚われたようであったのだから。
「……確かにあの優男、えらい余裕ぶっていやがったな。よほど腕に自信があるってわけか?」
むろんもう一人の仲間、ずんぐりが放った声にもまったく反応は返ってこず、ただその端正な顔、あからさまに凶気で歪めて。
「――次に会ったら、ただじゃ置かないぜ。もちろん、今度は命の保証もしない」
「……」
「そしてあいつの正体も、必ず、何が何でも突き止めてみせる」
……そしてそれゆえだろう、続いて放ったその昏く静かな言には、しかしむしろありありと、そう、隠しようのない復讐の念さえこめられていたのだった。