45.殉教(2)
「ポ、ポール……」
それは出来る限り相手安心させようとする笑みだった。そう、以前なら常にポールが誰彼に対しても構わずよく示していたような。
「安心して、ロイド。もう大丈夫だから」
だが今は状況が状況、すなわち流血沙汰のすぐ直後のことである。しかもそれが目の前の友の手によってであったことは、かえってロイドに甚だしき恐怖もたらしている。それくらい、普段のポールでは絶対に起こさない事象だったのだ、あれは。
――まぎれもない、人殺し。
彼にとっては得がたくも頼もしい存在のはずだというのに、畢竟少年がむしろ警戒の色現わしてしまったのは無理もない。ポールがいかに優しく声掛けてきても、ロイドの方がなかなか答えようとしなかったのはそれゆえ至極当然のことだった。
瞬間、交差するエメラルドとアクアマリンの瞳。
片方は哀しげに、片方は怯えた風に――。
「……もう、シメオン様も倒されてしまったんだ」
「え?」
「今なら逃げ出しても、誰にも見咎められることはない。実際クレオナさんたち、他に捕らえられていた人々も脱走出来たんだから。――さあ」
そうして妙に感情押し殺したように言うと、その手を伸ばしてきたポール。紛れもなく、親友のこと思いやる者のそれに違いない真摯な素振りだった。
「早く」
ただし、その瞳には、やはり限りのない翳りを帯びさせて。
「う、うん」
むろんシメオン倒れるの報はロイドをしてまず大いに驚愕させたが、しかし先ほどのパミラの感じからするとそれも納得できないことではない。とにかく彼女もここから聖都へ急ぎ向かおうとしていたのだから。それゆえ彼もようやく何かとんでもないことが起こったと事態の急変悟り、ならば確かに早く脱出した方が良いだろうと、ポールへ向かって慌てて頷き返したのである。
もちろんいまだ、目の前の少年に対しては聞きたいこと山ほどあったが。
「よかった、さあ、行こう。この辺りは教会兵がまだたくさんいるから、危険なんだ」
「――ファイさんは?」
「え?」
「錬金術師の……」
だが、そうしてポールはいそいそとここから抜け出す動き示し始めたものの、対してロイドにはどうしても聞かなければならないことが一つだけあった。そう、あの紫の瞳持った美青年。何よりあろうことか導師シメオンが倒されたというのならば、もしかして……。
「ああ、そうか。ロイドはあの人の知り合いなのか」
「! ポールは、やっぱりファイさんと会ったの?」
「会ったというか……」
一方そう問われると途端、ポールは表情を変える。しかしそれは紛れもない畏怖、そして憧憬。しかも、かつて天使に対して示していたのとはまるで異なる類型のような……。
「とにかく彼が、あの人がシメオン様を倒――」
――だが、彼の話はそこでふっと途切れ、なぜか最後まで続くことはなかった。
突如として、その表情が一変している。
それもあからさまな驚きと、そして次いで苦痛の顔となって。
「ポール?」
それゆえその余りの急変ぶりにロイドもつと怪訝な表情示し、急ぎ彼に駆け寄ろうとしたのだが。
「ぐ……」
しかしそうして彼の身体支える暇もなく、瞬間ポールは突然床に両膝を突き、さらに胸から力なくうつ伏せに倒れ伏してしまう。その間時にして数秒、まさにあっという間の出来事であった。
「ポール!」
当然ロイドは息せき切って彼の許に近づき、状態確かめようとしたものの。
「あ!」
しかしその刹那、少年の背中に深々と一本の短剣が突き刺さっているのを認め、再び驚愕の表情露わにしていたのだった。
「そんな……」
そうしてたちまち友人の背中が血で赤く染まるという余りの突発的事態に激しく狼狽しながら、ロイドは慌ててはたと何かに気づき彼らの傍で倒れていたパミラ、見やったのだが。
「く、一人だけ良い目には、あわせないよ……」
そこにあったのは何と、最後の執念と言うべきか、やや半身起こした執政の姿であった。さらにはその右手が前へと差し出されているの見れば、明らかに彼女が短剣投げつけたということなのだろう。それはまさしく地獄の邪鬼のごときもの凄い形相だった。
「!」
「くそ、あたしも、焼きが回ったもんだ……」
――だが、結局はそれが彼女の最後のあがきだったようだ。その証しにそう一言零すとふっと紅い瞳から光が消え、次の瞬間パミラは再び突っ伏し、そして今度は二度と起き上がることなかったのだから。
刹那、銀色の輝ける長い髪が石床へ絹布のように美しく広がり……。
かくて再び、神殿の一画にある牢屋が迎えていたのは、しばしの静謐の時。
◇
一人だけ残されたロイドは、かくてただ茫然とばかりしている。
目の前にはこと切れた執政と、今や動きほとんど示さなくなった親友。
まさに信じられぬというか、およそ自分の人生では見られるはずなどなかった光景だ。
しかもその倒れたポールも、傷の深さから後少しすれば命の火、たちまち消えてしまいそうで……。
むろんではだからと言ってどうすることもできず、結局死にゆく親友を震えながら見つめるだけのロイド。彼にはこの場面を何とかする技も力も、当然今は何一つなかったのだから。
(ポール……)
……いずれにせよいつしかそのつぶらな瞳からおびただしく涙、涸れることなく流れ続けていたことに、はたして彼が気づいていたのかどうか。
そう、その途端ソフィーの死の場面まで知らずはっきりと思い返されて、ロイドの心は千々に引き裂かれんばかり、もうおかしくなりそうだったのだ。
そうさせたくらい、彼の眼前で次々繰り広げられていった凄絶な場面。もはや誰が敵で、誰が味方なのか皆目見当もつかないような。
――いつしかここから逃げ出す、という大きな目的まで、忘れ去ってしまっていたほどに。
心の傷は、それほど喩えようもなくひたすら深く、重たく。
暗い翳が、どんよりと心の中へ容赦なく射してくる……。
「ロイド!」
だが、そうして少年が幼子のごとき泣き顔のまま、しばしじっと動かぬポールの姿見つめていた、次の瞬間だった。
「!」
ふいに聞こえてきた力強い声が彼をそちら――牢屋入口の方へと、我知らず振り返らせていたのだった。
◇
そこには銀髪に紫色の瞳、そして漆黒のマント纏った美青年が立っていた。
かなり肩で息していたのは、やはりここへ来るまでに激しく戦ってきたからなのか。その手には愛用の鋭い長剣も握られている。
「……!」
そうして彼は一目見て、この部屋で何が行われたかも察したのだろう。その瞳がまずパミラ、そして次にポールの横たわった身体検分したのは明らかだった。
「仲間割れ、か……」
そう呟き、加えて次にはようやく部屋の奥、鉄格子向こうにいるロイド見つめ、彼が少なくとも大きな外傷負っていないこと確かめると一つ首肯。静かな、だが同時に確かな足取りで、はたして二つの身体回り込むように少年の元へと近づく。
「ファイさん……」
対するロイドが彼の名切なげに呼んだのは、言うまでもない。しかもいまだ激しくただ泣きじゃくりながら。
とにかく、目の前の錬金術師へ少しでも救い求めようとして。
「何かあったようだが、大きな怪我がなくて何よりだ」
「でも、でも」
「安心しろ。ひとまず君を狙う存在は、ここにはいなくなった。……神殿から抜け出す時だ」
すると彼はそんな傷心の少年見つめ、すぐさますっと安らかにさせるよう微笑みかけてきたのだが、
「ま、待って……」
――しかしその刹那、ふいに背後から、その微かな声は聞こえてきたのだった。
「!」
「え?!」
途端その声の方振り向く二人。むろんそこにはうつ伏せに倒れたままのポールがいたのだが、しかし今彼は必死の形相で顔だけ何とか起こし、そして何かを伝えようと口を開きかけていたのである。
だがその姿は余りに悲愴で、ロイドとしてはとても話どころの状況ではない。
「駄目だよポール、そんな喋らないで! それより早く外で治療を――」
当然少年は声を大にして慌てて呼び掛けたものの。
「あ、あなたが、天使を倒し、たんですね……」
しかしポールはそれが聞こえていないのか、あるいは自らの死期を悟ったのか、眼前に立つ青年の方見つめると、そう苦しげに呟いていたのだった。
「す、凄い、あの人を倒してしまう、なんて」
「ロイドの言う通りだ。それ以上、無理に話さない方がいい」
「僕は、僕は、でもどうして――」
むろんファイも気遣わしげにそう告げたものの、ポールの方は決して声を止めようとはしない。むしろこれを言わない以上、決して死ぬことすら適わない、それはそんな強い決意こめられたような様相なのであった。
「あんな残酷な人間に、憧れていたんだろう……」
そう、掠れ行く声音とともに息も荒くしたのだから。
「ポール、お願いだから……!」
「ロイド」
「え?」
そして次には、ポールはファイの向こう、ロイドの方へ視線を移している。もう大分その瞳に映る相手の姿は薄れているのだろう、そう思わせる弱々しい瞳の光だ。それゆえロイドが慌てて牢獄の中から飛び出て、友人の元へ駆け寄ったのも当然の行動でしかなかった。
そう、恐らく少年の最後になるだろう言葉、決して聞き漏らすことはするまい、と。
「ロ、ロイド、信じてくれ……」
はたしてそんな近寄ってきたロイド、いつも神学院では彼に教え乞うていた弟のような友へ、もはや途切れ途切れになりながらポールが語り出す。いつしか眠たげに、その美しかった緑の瞳も力なく次第に閉じていきつつあった。
「信じる、何を?」
「僕は、僕は……」
むろんその言葉も、もはやよほど相手が耳寄せないと聞き届けられないほどの小ささで。
傍らではファイがいつの間にか剣も鞘の中へ仕舞い、物言わず静かにそんな二人のやり取り見守っている中。
ポールの表情を、そして罪への後悔と許しを乞えた――決して許されぬとしても――ことへの満足、そのない交ぜとなったものがふと過っていく。
辺りを包むのは、とても導師の死んだ後とは思われぬ、静謐なる沈黙。
ただ天使が死んだためか、全体的にどんよりと暗さ増してきた感はあり……。
「ポール」
「な、何があろうと」
「う、うん」
そうして僅かの後、ポールが正真正銘、最後の力振り絞りきったその時。
「ソフィーを、あんな目に遭わせるつもりは、なかったんだ……」
……彼は見えない眼でロイド見つめ末期にその一言だけ届けようとしたのだが、その声音はしかし必死に、死にゆく者のものとは思われぬほど確かな響きだったのである。
そう、少なくとも、ロイドにとっては。




