26.決意
ファイは仄かな青光の中、まるで迷路のように無数の石碑が並べられた空間を進んでいた。
キルヒトたちの策にはまり、この地下に広がる暗き世界に落とされてから、もう大分時が経っている。どうやら連中はすぐさま落とし口に蓋をし、さらに特殊な封印まで施したようで、いまだ上へと戻る道は見つかっていない。まさしく暗中模索、エーテルの光がなければ死ぬまで暗闇の中さまよう羽目になっていただろう。
この、どう考えても生きている者には何ら用のない場所を……。
(地下墓所、か)
そうして足音潜め辺りを注意深く探りつつ、この謎めいた空間について思い巡らすファイ。
そう、その様相、形状からしてここが死者たちの憩いの場――しかも遠い昔に使われ、今は放棄された――であることはまず疑問の余地がない。その証拠に石碑は縦横規則正しく並べられ、光で確認したところ表面には数字や文字がいくつか刻まれている。むろんそれは生前彼の者が使っていた名前、そして生没年だ。特に年数に関しては、調べた石碑全てに神聖暦以前のもの――ディクロートの皇帝暦が使用されていた。ここがアクトリアスによる征服を知らぬ区域であるという、その何よりの証拠だった。
(さて、どうするか)
……もちろん、だがそうしてこの奇妙な地下空間の来歴が知れたところで、今のファイにとっては何一つ重要な意味は皆無、従って彼がすぐさま思考切り替え、再び現前する問題に立ち戻っていたのは言うまでもない。
とはいえ、目の前に広がるのはどこまでも広漠で空虚な空間である。どこへ行っても光の世界へ戻れる道があるようには思われず、はたしてそんな中、ファイに一体どんな思惑があったというのだろうか――。
むろん、よって今がどれくらいの時間帯なのかという感覚など、大分前から完全に失くしてしまっている。ただ、自らへ訪れる眠気、空腹や疲労感等の体内時計から、何となくそれを推し量っていくのみなのだ。ともすれば方向感覚すら簡単に狂ってしまうほどの、そんな全き闇のただ中で。
要するにここはキルヒトたちの前もって知っていた領域。アーレム、しかも下卑区の下に限りのないがごとく広がる古代の忘れ去られた墓地。確かに誰かを密かに閉じ込めておくには、これ以上ないくらい最適な。
加えてご丁寧にも、とても夏だとは思えぬ、異様に冷ややかな空気まで漂わせた。
「ム、――あれは?」
……そして、それゆえにだろう。その刹那、真夜中よりも色濃い闇の彼方、進行方向の大分先の方で空中に突然たゆたいながら浮かんだその二つの小さく怪しげな赤光は、
「まさか……?」
はたして彼をして途端ハッと、まぎれもなく強い警戒心、抱かせていたのだった。
◇
そこは下卑区のただ中にある小さな家だった。
嵐でも来れば吹き飛ばされそうな、木の壁と板葺き屋根の平屋建てである。
細い路地の途中に位置し、外見には別段変わったところもない。軒を接して建ち並ぶ他の家ともども、むしろ平凡過ぎて注目すること皆無と思われるほどだ。
そう、要は、この地区では飽きるほど見られる、極めて平均的な一般家屋の中の一つ。
朝から、特に目立った人の出入りも認められず、また住人が外に出てくることもまるでない――。
「よく来たな」
だがロイドにとっては、まさにそこは強い決意こめてとうとう辿り着いた、いわくつきともいえる場所なのであった。
中から外を窺える構造だったのだろう、彼は心決めて玄関のドアをノックするなり、誰何の声もなくあっさりと屋内へ通されている。
そうして入った家の中は外見通り、いやむしろ予測されたものを凌ぐ質素さで、まず家具はほとんどなく、見当たる存在といえば机と、それを囲む四脚の椅子くらい。いわゆるどこまでも生活感が感じられない、というやつだ。おまけに外の見た目からするに部屋の数も隣にある狭そうな後一つと合わせてやっと二か所らしく、これでは大人数で集まるにはあまりに物足りない。それくらい見た目は唖然とするくらいに慎ましく、また閑散ともしていたため、言うまでもなくとても落ち着いて話ができる場所とは思えなかったのだが……。
「どうした、せっかく来てくれたんだ。もっとリラックスしろよ」
卓を挟んで対面の席に座った相手――キルヒトはいかにも大らかに、そして微かに笑みまで零してそう宣ってきたのだった。
その姿はジャケットに始まり何から何まで相も変わらず黒一色。それが彼の不変なるイメージカラーということなのか、確かにいかにも完璧に全て着こなしている。加えて特に今日は黒の手袋までつけていたことが、そのイメージを強化することにかなりの力加えていた。
若者はそうして首を長くして待っていたかのように、さも満足げに眼前に座すロイドのことまじまじと見つめる。しかも対して少年がきっと瞳に輝きこめて見返してくると、彼はさらに嬉しげに声さえ洩らしていたのだ。
「お、いい感じだな。その様子だと、かなりやる気になったと見える」
「――まだ、完全にそうだという訳ではないのですが」
「ほう、何か疑問でもあるのか?」
だが、眼差し強くしたままこちらは釘を刺してくるロイド。こればかりは聞かないと、絶対に先には進ませない、それはそんな強固な決意表明にも似た口ぶりだった。
「なるほど協力してもらうんだ、疑問は出来るだけなくしておいた方がいい。それで、何が聞きたい?」
「まずはクレオナさんのことです」
「!」
「彼女が、本当にあなたの仲間だったのかという」
そして続けての彼の一言は、それまで余裕だったキルヒトをして知らず瞬間固まらせる。目の前のこの素朴な少年が放ったとは思えない鋭さで。
「……そうか、迂闊だった。あの娘は神学院で働いていた、君とはすなわち知り合いだったか」
――それでも、次にはすかさず平常取り戻し、静かに言葉返していたのだが。
「教会兵が来たんです、クレオナさんを捕えに。その時に兵士は彼女がボルグ事件に関わっていたと告げたようで……、しかも止めようとしたアトリさんが犠牲になってしまって」
「……」
「何であんなことに……いや、そもそもクレオナさんは本当に――」
そうして必死に溢れ出そうとする思い押しとどめながら続けたロイドだが、するとその言を遮って、キルヒトが怜悧な響き声音に含ませ応じたのだった。
「残念ながらそれは真実だ」
「え? 本当?」
「いや、だが仲間というのは違うな。つまりは君と同じ協力者とでも言うべきか。そう、酒場でクレオナと出会った俺は、彼女にある種の素質を感じていた。このアーレムの制度、構造自体に対してはっきりと疑問抱いているような。――だから持ちかけてみたんだ、この街を支配する奴らを俺は一息に倒してしまいたい、そしてそのためには聖家区で自由に動ける君の力が借りたいんだ、と」
そう一気にまくし立てると、瞬間訪れたのはつかの間の沈黙。外を歩いていた何人かの声が、その時だけ目立って聞こえてきたような。
……そして彼は改めて相手の瞳しっかりと見据え、話の先を続けたのである。
「……そして彼女は実際よく俺たちのことを助けてくれた。つまり、霧の発生を。あの霧はエーテルの力も弱めるし、何より姿を隠して行動するにはうってつけだ。特にボルグを動かす以上。――だが、運悪くその霧を出したところを誰かに見られてしまったらしい。それで教会は動き出し、ついには恋人があんな目に」
「そ、そうまでして、何故あなたはこの街へ背きたいんですか?」
と、その言にたまらずロイドが物問う。そう、人が、しかも自分が親しくしていた人が一人もう亡くなってしまっているのだ。そんな悲劇に一体どんな意味があったというのか、協力を申し出る前に少年は是非とも知らなくてはならず……。
「何故、か」
すると一拍の間を置いて、キルヒトはどこか遠い眼をしたまま、穏やかに、そしてそれでいながら強い気持ち入った感で、ロイドへ告げていたのだった。
「だがそのことなら、君にももう十分分かっているはずだ」
と。
「分かっている……?」
「そうだ、獣舎で、ボルグの手に浮き出たあれを見た以上は」
「ボルグの、手……月の中の星」
「ああ、あれの意味するのが」
そしてキルヒトはその声音に哀しみとも怒りともつかぬ大きなもの籠め、押し殺した声で言った。
「ボルグが、元々人間だったという証、つまり紛れもなくシメオンに付けられた下卑の刻印だったとすれば」
「!」
――それはやはり余りに衝撃的な一言だった。
むろん獣舎でのあの一件以来、ロイドも心のどこかでその確信抱いてはいたのだが、しかし彼の中の常識、というか良心がそれを認めるのを頑なに拒んでいたのだ。
すなわち、あの魔獣の正体は人間に手を加え、変成した存在であるという。
「やっぱり、そうだったのか……」
「信じたくない気持ちはもちろん十分理解できる。そもそも教会がそんなことをするはずなどありえないのだから。俺も自分の目で確認するまでは、そうだったように。――だがロイド、君は見てしまったんだ、あの印、5つある内の一つを。あれがまがい物じゃないのは、当然分かるだろう?」
「は、はい……」
そしてさらにそう迫られると、ロイドとしても深く頷かざるを得ない。何より、彼はしかとそれをこの瞳で目撃したのだから。
痛みにボルグが苦悶の表情浮かべていた中。
トカゲ、牛、虎、狼……。様々な獣の<相>寄せ集め、ついに理想の戦闘生命として生み出されたという、力に溢れた魔獣。何よりディクロート期よりも遥か古代、神話時代にこの世界闊歩していた怪物を完璧に錬金術で復活させたあの<化生>たちと戦うべく、誕生した。
「でも、だとしたら何でそんなことを」
「それはもちろん、人間が一番賢者の石による変成し易いからだ。何といっても下卑でも普通の獣よりはエーテル量大分多い。そう考えれば、こちらの方が圧倒的に効率が良いといえるだろう」
「効率って、そんな……」
だがそう言われて納得などできるはずもない。むろん動物だからと無下に扱っていいわけではないが、しかしあろうことか人間、それも同じ町に住む同朋をまさしく実験材料にしてしまったのだ――。
「信じられない」
ゆえに次の瞬間ロイドがとうとう怒りに顔色染め思わずそう言ってしまったのも、むしろその性格思えば当然過ぎることなのだった。
「どうした、教会のやり方が分かったか?」
「――だからキルヒトさんたちは、導師様を倒そうと」
「もちろんだ。そうでもしなきゃ、この街の大多数は救われない。遥か上にのさばる傲慢な上流階級どもの犠牲となって」
「そして、母さんも……」
そうしてロイドが次に零した呟き。それはむろん若者をして目見開かせるに十分なものだった。
「おお、やはり大図書館に行ってきたか。では、見たんだな、君の母親の記録を」
「母さんは名前を変えていたけど、その出生は――」
「そうだ、それが紛れもない真実だ」
――そして少年は、対面からキルヒトが期待をこめて見守る中、ついにはまるで熱に浮かされたようにそっと、誰にともなくその一言放っていたのである。
「間違いない、……下卑だった」
その小さな声音、分かり易いくらいに震わせて。




