2.神学院
その日未明からアーレムを覆っていた奇妙な霧がようやく晴れ、街がいつもの相貌取り戻してから、およそ半刻ほど――。
市の最上階層、白の丘の頂に建つ神殿にもっとも近き<聖家区>にはパルメニス神学院という名の学校がある。広大なる敷地持ち中庭を取り囲んで長い回廊及び幾つもの部屋が巡った、そこは荘厳な修道院を思わせる建築物。何よりパルメニスは言うまでもなく教会直属の錬金術師養成機関であり、通っている生徒もそのほとんどが良家の子女という構成だった。すなわち、教える側も教えられる側も全員エリートばかりの、庶民の生活とはおよそ隔絶された言うなれば一級市民専用空間――。
とはいえ一日の始まりたる一時間目が終わりやっと来た休み時間、各教室の所々で生徒たちが他愛のない話の花をいくつも咲かせていたのはいつも通りの光景だ。むろん東側で庭へと面したアーケード臨む、上から二番目に当たる5年生の教室でもそれはまったく同様で、いくら将来の錬金術師たちが場を占めると言っても彼ら彼女らは最近人気のお菓子から舞台俳優の噂まで、色とりどりの話時を忘れ語り合っていたのである。なんといっても皆まだ14歳頃の子供たち、その好奇心には限りなどあるはずもない。
白の上衣の上から青の胴着纏い、さらに紫のケープというお揃いの制服着た生徒たちは、そういう意味ではまさしく今が育ち盛りというやつ以外の何物でもなかった。
そしてとりわけ中でも、今日に至ってはなぜかその部屋の一隅、アーケード側の右側後端部において特にある話題がずっと賑々しく交わされており……。
「ようロイド。今朝は大変だったそうだな」
他の生徒掻き分けいかにも勝ち気な様子でロイドの机へ近づくと、その少年は目にありありといじわるな光湛え言い放った。
そして背後に付き従うようについてきた二人の悪友たちもろとも、腰に両手当て居丈高と気弱げなロイドの姿見下ろす。
やや癖のある茶髪に、同色の吊り上がり気味な瞳。その下の鼻もそれと同様つんと上へ向いているのを見れば、それだけでかなり生意気そうな雰囲気だ。むろん何よりもそのまこと横柄な態度自体が彼の性格を如実なまでに明証していたのではあるが。
「……まあね」
「まあね? 何だその態度。俺たちがこれだけ心配してやっているんだぞ」
「だからイザークだってそんなに心配しなくても……」
対してややウェーブの掛かった灰髪が特徴的なロイドの方は何ともやりにくそうな風で、すなわち完全に仕方なしとばかりの応答返している。そのやや怯えた色もある感じ見れば一目瞭然、彼がこうして茶髪の少年の悪趣味ないじりに遭っているのはどうやら日常茶飯のことのようであった。
「いや、でも下の広場でボルグに襲われかけたんだろ? そりゃ心配になるさ」
「でも結局何もなかったわけだから」
「何も――ねえ」
と、相手が答えるとここで茶髪の少年――イザークという名前らしい――は大袈裟に目を大きくしてみせた。それは彼によく見られる、これから間違いなく気の利いた悪口を放つ前の仕草。そう勘良く悟ってしまうと、ロイドが知らず暗澹たる気分になったのも当然であろう。
「な、何?」
「あの怪物に今朝真正面から襲われたのに何一つ傷を負わず、しかもごく普通に学院へ来ている――こりゃまさしく奇跡以外考えられないな。……もちろんそれが本当の話なら」
何より、彼は勢いづいてますます饒舌な感となってきたのだから。
「え?」
「――嘘にしちゃちょっと下手くそ過ぎる。何せ相手が相手だ。要は自分が注目の的になりたかっただけだろ?」
「そんな!」
「目撃者だって一人もいないんだ、いくら霧が深かったとはいえ。だからさっさと白状するんだな、自分がヒーローになりたかったからみんなを騙してしまいましたって」
はたしてそう断言まですると、当然のごとく後ろの二人もうなずきつつ嫌味な笑み浮かべている――声も妙に大きく、まさしくそれはロイドをこの場で大嘘つきに陥れようとする陰険極まるやり口そのもの。もちろん計算通り同時にそのやり取り遠巻きに見ていたクラスの仲間たちにもさざ波のごとく訝しげな感が伝播したのは、わざわざ言うまでもないことだった。
「そんなことするわけないだろ!」
「どうだか。いずれにしても早めに言えば、罪は多少軽くなるかもしれない。もっともわざわざ呼ばれた警吏の方はさぞ迷惑だったろうが。まあ、結局侍人の母親持った奴なんかの言うことは――」
「あんた何言ってんのよ、さっきから!」
と、そこでふいに二人のやり取りへ強引に入ってきた声があった。
いかにも活発そうな、だが今は怒気を含んだ女の子の声音。
当然イザークと取り巻き、そしてロイドもそちら、イザークたちの背後へと急ぎ目をやる。
「ロイドがそんな真似するはずないじゃない、それに親のことは関係ないわ!」
「何だソフィー、またわざわざこいつをかばいに来たのか?」
「あんたがいつもちょっかい出すからよっ」
そうして彼らは肩まで届く朱色の髪に長いまつ毛で縁取られたつぶらな茶色の瞳、卵形の顔した可愛らしい少女――ソフィーがそこで頬膨らましているのを眼にしたのだった。
「実際ロイドだけじゃなく、ボルグが町中に出現したって話は最近よく聞くんだから」
「ふん、だから何だよ? ロイドは見ての通り傷一つないんだぜ、その件の化け物に出会っても。いくら何でもそりゃおかしい」
「運が良かったってことでしょ!」
これにはイザークは思いきり鼻で笑う表情を返した。
「運? はん、ボルグは必ず怪我人出したり建物壊しているっていうのに? それでこいつだけ無事なんてことあるもんか、そう間違いなくこれは――」
「どんなことでも疑い出したらキリがないよ、イザーク」
「!」
だが、彼のそんな勢いある言葉はまたもや中断された。騒ぎを聞きつけたのかソフィーの後ろからさらに二人の生徒がやって来て、その内の一人がなだめるような落ち着いた声放ったのだから。そしてそれはソフィーの叱声よりは余程効果があったと見え、イザークは知らずバツの悪い顔となってしまっていた。
「ポール……」
「それにどんなことにも例外はある。これまでの事件と比べておかしな点があっても、だから嘘だと実証されるわけじゃない。そうだろ、ダビド?」
「ああ、同感だな」
そうしてポールという名の少年は、傍らにいるもう一人の方へと同意促した。それはまさしく金髪碧眼の眉目秀麗を絵に描いたような学生、イザークのみならず、ロイドでさえもどこか圧倒されてしまったような。
「とにかく軽々しく嘘つき呼ばわりするもんじゃない」
対して声を掛けられた相手、黒の短髪したダビドなる少年もうなずきつつ答える。こちらは子供ながらなかなか精悍な顔立ちの生徒だ。
「いずれにしても、ボルグ事件に関しては機密錬金術師様が何とかしてくれるはず」
「ああ、もちろんロイドの一件にもすぐ関心をもたれるはずさ」
「……ちっ、みんなして妙にこいつの肩持ちやがって」
かくて思わぬ加勢に自分たちの分の悪さ咄嗟に理解したのだろう、イザークは変わらず憎らしげな面見せながら呟くと、次いで今は両サイドに立っている二人の悪友双方へ荒々しく呼び掛けていた。それはまさしくこの少年が親の力笠に着た悪ガキグループのリーダー格であるという、その何よりの証拠に違いなかった。
「もういい。おい、ルース、ジャド。行くぞ!」
「おう!」
「ああっ」
加えて途端応じた声を受け、あからさまに肩怒らせ向こうへと足早に去って行きつつ。
「何よあいつら、本当頭にきた!」
そうして遠ざかるその三つの背中へ勢い放たれていたのは、これまたソフィーの威勢の良い声音――。
◇
「……ロイドもたまには言い返さなきゃ。でないとあいつらやりたい放題よ」
……その僅か後、すなわち次の授業が始まる数分前にいまだ怒り収まらぬと声かけてきたのは、いつも通り隣の席に座ったソフィーだった。もうそろそろ担当教師が来そうな頃合い。他の生徒たち同様、その声量は決して大きなものではない。
「そんなことしたって、結局またやり返されるだけだよ」
「それでも何も言わないよりはマシよ。とにかくイザークは特にロイドのこと眼の敵にしているんだから」
「……放っとけばいい」
しかし、対する少年はそもそも闘争心欠けているのか、その発破にも振り向くことなくほとんど無反応貫いている。むしろそんなこと言われていい迷惑、とでも言いたげな、それは実にやる気のない態度だったのである。
少し長めでややウェーブの掛かった灰髪、きりっとした眉の下大きくつぶらな青瞳、小ぶりな鼻と口、そしてふっくらとした頬。そんなポールとはまた一味違った、しかし普通にしていれば十分可愛らしく可憐ともいえる面立ちした少年は。
「……ロイド。それだと、本当に嘘つき呼ばわりされちゃうよ」
「嘘じゃないよ、間違いなく僕はボルグを見たんだ」
「私ももちろん信じる。でも悔しいけど、イザークの言った通り証拠が何もないから、本当なんですと言ったところで――」
「証拠?」
と、だがそこで少女が一言放つとふいに強く気を引かれたのか、ロイドがようやくソフィーの方を向いた。
「……証拠なら、ちゃんとあるよ」
しかもその海青石の瞳に常ならぬ光宿らせ始めて。
「え?」
「あの時僕を助けてくれた人がいたんだ」
「まさかそれって、ボルグからってこと?」
「うん、その人、錬金術師だから」
当然ながらその言葉は、ソフィーをして大いに驚かせた。
「錬金術師がいたの、そこに? でも警吏にはそんなこと何も……」
「間違いなく、この町の人じゃなかったんだ。だから余計なことは言わないでおいた」
「そう、か。……でも、外から錬金術師が入って来るなんで、聞いたことないわ」
「会ったばかりで、僕も詳しいことは全然分からないよ」
そう言って、ロイドの方は少しもどかしげに面伏せてみせる。
「じゃあ、もしかして……」
むろん対してソフィーはソフィーで、その言葉に驚きの中何やら思い当たることがあったようだった。
「その人に証言してもらえば」
「! 証言……」
「そうよ。でももちろん錬金術師って明かす必要はないわ。ただ街を歩いていたらボルグに出会ってしまった、そして何とかロイドと逃げ出すことできたって」
「う、うん」
「その人はどこにいるの?」
そうして続けざまに発されたソフィーの問い。どうやら当のロイドよりも彼女の方がここに来て俄然やる気出てきた、それはそんな感ありありと分かるような口調である。
「どこにいるか……」
「そう。旅人なら、多分宿でも取っていると思うけど」
「分かるよ、あの人がどこに泊っているのかは」
「!」
するとつられて次第に自分も活力湧いてきたのか、ソフィーが物問いたげに口にするやようやくロイドも声をやや大きくして応じていたのだった。
そう、何よりも霧の中出会った、あの紫の瞳持つ美青年のことが脳裡に強く思い出されて。
「あの時渡されたこれに、宿の名前が書いてあったんだ」
――はたして続けて制服の懐へ入れてから出したその左手には、一枚の青いハンカチが大事そうに、そしてしっかりと掴み取られていたのだから。