19.檻の中の獣(1)
鼻をつく獣の臭いたちこめる中、ロイドはその両側にズラリと並ぶ部屋部屋――頑丈な檻の放つ圧迫感に息苦しささえ感じ取っていた。しかもそうした部屋を廊下と区切る鉄格子の向こうには、げに恐るべきとしか表現しようのない存在――ボルグが静かに、しかし凶悪な眼光輝かせじっとこちら窺っているのだ。
そう、いつでも隙さえあればその鋭い爪で獲物八つ裂きにしてしまおうと。特にふいにやって来たこんな小さくて弱々しげな侵入者など、いとも簡単に屠れる自信あるがゆえに――。
(ここが、あの<獣舎>なのか)
それゆえ先ほどからずっと、延々と続く暗く長い廊下の中ロイドはなるべく前を行く早足の人影から距離離されないように、必死になって足を動かしていた。
何といってもここは下卑区の一番奥に位置する、あの<獣舎>なのである。すなわち、無数のボルグたちを逃げ出さないよう収容した施設……。
いくら鉄格子越しであるとはいえ、その存在感が知らず怖気催しているのは否定できるものではなかった。特にこの、ロイドのような初めてこの場所へ入った者にとっては。
「よし、この辺りでいいだろう」
……従ってそれなりの距離歩いた後、やがてふいに目の前の黒ずくめの男が足を止め振り返ってくると、ロイドがようやくにして目的地に着いたとホッと胸撫で下ろしたのも、それまでの緊張感思えば至極当然のことだったのである。
何より、それは男なのか自分なのか、とにかく彼らが前を歩くたびに、魔獣たちはほぼ例外なくその相手目掛け小さくも猛々しい鳴き声、発していたのであるから。
――キルヒト。先日侍人区の酒場で、ロイドのことを待っていた若者。
相も変わらず怜悧で鋭い眼差しした、そこには酷薄ささえ垣間見える、全身黒の衣装でまとめた男。
何よりあの時、結果的に断られたとはいえ、ロイドの協力を真剣な風で仰いだ……。
「準備はいいか?」
「え?」
「真実の公開に」
と、立ち止まったロイドが内心息を吐いていると、キルヒトが静かに告げてきた。
ただでさえいつも冷ややかなのが、今はさらにいっそうその度を増している――それはそんな声音だった。
少年は知らずつぶらな目をしばたたかせる。
「ここで、なんですか?」
「ああ、この檻にいるボルグなら、よく俺になついている。従って少々手荒な真似しても、激しく暴れたりはしないだろう。何よりここにいる飼育員は大概が俺の仲間だ、たとえ叫ばれても、外に気づかれる心配はない」
「手荒な真似って……」
むろん続けての言はさらにロイドを戸惑わせるものだったが、男の方には一切の躊躇う素振りがない。すなわち彼にとっては、これから行うことはさほど特別なことでもなかったのだろう。
おのずと、その促す声にも力が入っていたのを見れば。
「これは君が望んだことだ。真実を知りたいから、ここへ来たんだろ?」
しかも、黒曜石の瞳に得も言われぬ強い光、しかと宿らせて。
「報酬は、この街の真実」
それが酒場で会った時、キルヒトが語った取引内容だった。つまりは、自らの仕事に助力してくれるならば、それ相応の秘めたる情報与えるという。とはいえその時のロイドにとってそれはさしてピンとくる言葉でもなく、結局彼がいったんはその依頼断ったのは言うまでもない。何より、目の前の男にどこか危険な感じも受けていたのであるから。
だが、あれから数日経った今となっては、彼にはその真実とやらを是非知りたい、切実と言っても過言ではない理由が確かに存在した。そう、何といってもあの、学院でアトリが無残にも教会兵に切り殺された悲惨な事件の後では……。はたして教会は本当にあらゆる人々に、分け隔てなく真理の救済を与えてくれるのか、という。
すなわち、それは自らの幼いころからの信仰に、一体どれだけ意味があったのかという真摯な問いでもあり――。
「ところでロイド、ボルグがどうやって生まれたか、知っているか?」
と、そこでキルヒトが眼差しロイドに向けたまま質問してきた。それは教師が生徒に向けたような、実に初歩的としか思えない問いだった。
「ボルグ、ですか? もちろん。つまり、色々な獣の<相>を合成して――」
「では、その元となったものは?」
「元?」
だが若者はあくまで真剣な感で問いを重ねてくる。その様相にやや怪訝なもの覚え始めていたものの、しかし学院で習った基礎的知識でもあり、少年の返答はやはり淀みのないものであった。
「確か、外で捕まえてきたエーテル値が高い動物たちだったはずです」
「なるほど、賢者の石にも反応しやすいがゆえ……まさに模範的解答、というやつだな」
「え?」
「だが、本当にそうなのか、確かめたことはあるか?」
そして続く、奇妙な言葉。ロイドにとっては、その意図がよく掴めないような。
「つまりは、実際にその場面を見たのか、ということだ。そしてこれは君に対してのみの質問じゃない。そう、ほとんどのアーレム市民に対してでもある」
何より、その表情自体がにわかに謎めいた色現わしていたのだから。
荒野で旅人たちに決して解けない問いを投げかけていた、神話が唄うスフィンクスのように。
「いえ、もちろん直接はありませんが、でも市がそう発表していることですし、間違いは……」
「だが、君は今その市を、そして教会そのものを次第に疑い始めている。つまりはこの都市における常識、というやつを」
「!」
「そしてある種のその解答を求めて、俺の元へと来た」
ましてやその声音はどこか沈鬱で、怖気誘うような陰りも帯びており――。
「今からこいつを、ボルグの手にかける」
かくてキルヒトは手にした壜を、ロイドにもよく見えるように掲げた。
それは透明な液体の入った、薬を入れておくような小さなものだった。
そのままでは、何の変哲もないというべきか。
「それは……」
「<イビスの涙>だ。すなわち」
だが、次の瞬間男が中身の液体揺らしつつ、静かに宣った一言。その冷厳な様はまさに、全てをこれから暴かんとする、闘志に満ちた告発者のごとくだったのである。
「――あらゆる秘密を、白日の下に晒してしまう薬」
しかも一瞬、小さく皮肉げな笑みまで付け足して。
「秘密を――」
「アーレムの知られざる暗部。機密錬金術師がどこまでもひた隠しにしようとしている。……では、覚悟はいいか?」
そしてふいに彼はロイドから視線を離し、別の方向、檻の方へと向け変えた。むろん、そこにはボルグが今もじっと鉄格子に張りつきこちら見つめている。
ただしはたしてこの街守るべく生み出された魔獣が、廊下で交わされた密やかな会話に何を思ったのかは、その静かな様からはまるで分からなかったのだが。
「これからロイド、君は想像もつかない真実を目の当たりにすることとなるだろう」
そう、キルヒトが大仰にそう宣った時も、彼の者は脅えたように何ら反応示さなかったのだから。
そして。
キルヒトは大胆にも、次の瞬間檻の中へ腕を突っこむと、
「さあ、行くぞ」
ふいに魔獣の左手がっしと取り、件の瓶の中の薬、躊躇なく振りかけたのだった。