17.市場での再会
侍人区――それは白の丘のすぐ真下、麓に広がる街区。導師シメオンによって計測されたエーテル量=真理値においては中程度の人々が暮らす、ミドルクラスの比較的穏やかな街だ。言わば上層と下層との緩衝地帯ともいえ、畢竟そこでは上下の民がもっとも交わり合うこととなる。すなわち、何より貴種区以上の街区に住まう者にとってはもっとも安心して食料品などが賄える、商家と市場によって形成された領域でもあった上は――。
「わあ綺麗。この赤い花、アネモネよね?」
「はい。可愛いお嬢さんには、とてもお似合いですよ!」
「ち、違うの、これは友達にあげたくて……」
そしてそれゆえなのだろう、この町は全体的に煌めく活気で満ち溢れ、そしてその真の象徴ともいえるのが中心に位置するメルキト市場、まさしくアーレム市で最大の規模と賑々しさ誇る一大取引所なのであった。つまりはその証拠として、当然そこでは店々経巡る人の数も昼夜問わずもの凄いものがあり、とりわけ毎日昼前頃ともなれば、常に行き交う人の群れ余りに甚だしかったのである。
「あら、愛しい人に贈るのですか?」
「だから違います! 本当に、ただの友達!」
そう、あいにくの小雨模様になったその日の六時課(午後12時)前も、メルキトの一画がやたらと賑わい見せ、中でもそこにある小さな花屋においては、朱色の髪した少女が一人色とりどりの品々に眩く目輝かせていたように。
その若々しい脳裏には、むろん今も寮にいるはずの幼馴染みでもある少年の顔、はっきりと思い浮かべて。
◇
ソフィーはかくて店で購入したアネモネ大切そうに抱えると、さてもう戻るかと市場の中家路急いでいた。もうここで買うべきものは買えたし、何よりこれを早くロイドへ渡したくてうずうずしていたのだ。
あの、昨日以来今も部屋の中閉じこもって、何やらずっと落ちこんでいる少年へ。
――確かに、昨日の昼間起きたのは、あまりにも強烈な残像と影響残すほどの恐るべき事件だった。何といっても、日頃親しくしていた人が無残にも殺されてしまったのだ。ロイドならずとも、大なり小なりトラウマ抱えるのは無理もない。そしてむろんそれはソフィーも同じこと。
ロイドと一緒だったり、あるいは一人だったり、とにかく小屋へ行くと、いつも明るい笑顔で出迎えてくれたアトリ。その奥では、クレオナもにっこりと笑み零して。そんなアトリが、だが今はもう会いたくても会えないという現実。教師たちは固く黙していたため、その詳しい事情はほとんど分からない。いずれにせよ、何か教会に反することは行ったのだろうが。
知らずそうして零れそうになる涙をこらえ、ソフィーは道を進む。そう、親友のように閉じこもりはしなかったものの、彼女が哀しみで一杯なのは全く同じなのだ。ただ、その表現方法が異なっているというだけのこと。つまりは居ても立ってもいられず、悲哀に駆られるままこんな所まで来てしまった……。
(ロイド、喜んでくれるかな)
ゆえにだからこそ、今の彼女には彼の笑顔が必要なのでもあった。あの、見る人を穏やかかつ明るくもさせてくれる、優しくて可愛らしい笑顔が。
こんな、どこまでも沈んでいきそうな暗い時には。
もちろん、ロイドだって大変だろうが。
(……何でこんなことに)
我知らず、そんな惑いに満ちた呟きも同時に心の中で零しているというもの。
まったく、今一体何が起きているというのか、一切訳が分からない――。
(あれ?)
と、その時だった。
ソフィーはふと、人混みいまだ絶えない前の方から、見知った存在が歩いてくるのを感じ取った。もう市場は終わりの方、そこを抜けると貴種区へと続く街路がある辺りだ。
両側をそれぞれ屋台に挟まれた、まるで狭き門のようになっている通り道――。
「!」
そしてにわかには信じられなかったのだが、そうして知己目にしたことに気づいたのは、どうやら相手の方も同様かつほぼ同時のようであった。
そう、彼はすっとその場で立ち止まると、その美しい紫の瞳でじっとソフィーの顔見つめてきたのである。驚天動地とはまさにこのこと以外ありえなかった。
まさか、あの時たった数分会っただけの自分のことを、この青年は憶えていてくれたというのか。何の変哲もない少女を、それもこんな人混みのただ中で……。
「あ……」
むろんソフィーは驚きの余り、慌ててそんな彼の元へ駆けつけようとしたものの。
「おっとと、危ない!」
「わあっ」
だが、そこで突然立ち止まったがゆえ突如として背後から大荷物抱えた商人らしき男にぶつかられ、彼女のバランスがふっと崩れてしまう。完全に不意を突かれたこともあり、また腕にはアネモネの花抱えていたこともあり、ふらつきはすぐさまますます大きくなって――。しかも間の悪いことに、今日は朝から小雨降り続く日なのだった。当然ながら濡れた地面は大変滑りやすく、ただでさえ均衡失った身体がぐらっと前のめりとなる。それはまさに持ちこたえようとする間もない一瞬の出来事で、もはや制御不能、石畳の地面に頭から転び落ちるのももう時間の問題と思われ――。
「キャッ」
だが、まさに、その危機的事態が起こらんとする瞬間だった。
「ム!」
それはまるで野を渡る涼風のようなすばやさ、軽やかさで――。
「! あ、ええと……」
「おっと、気をつけろよ」
……そう、次の刹那、それまで数マイス先にいたファイが眼前の光景見るやたちまち一気に距離を詰め、見事転び行くソフィーの身体、寸前で受け止めていてくれたのである。
◇
「あ、ありがとうごさいます!」
「気にするな。だが、後ろは注意した方がいいな」
「はいっ」
そうして何とかソフィーが危機を回避した数秒後には、通りの端で言葉交わす二人の姿があった。
降り続ける雨を避けるべく、金物屋の屋根の下辺りだ。背後には、メタリックな輝き放つ鍋や食器などが、台の上何とも賑々しく並べられてある。それら目当ての幾人かの客が見えるものの、中はさほど混みあっているわけではなかった。
「でも、私のこと覚えていてくれたんですね?」
「ああ、ソフィー、だったな。数日前のこと」
「そうです! あの時ファイさんと会って」
「ファイ?」
かくて一時の不穏な気分も忘れ、分かり易く高揚した面持ち見せるソフィー。それくらい、この風のように現れた異国の青年は彼女にとって活力与えてくれるものなのだった。
「あ、へファイスティオンさんだから、ファイさんです。多分私たちが言うと、上手く呼べないかもしれないから。――駄目ですか?」
何より、彼は自分の名前のことも、しっかりとその記憶に留めておいてくれたのだ。
「いや、確かにそうだな。あいつらもその名で呼ぶから」
「え?」
「いや、仲間のことだ。気にするな。――それと」
対する錬金術師はそう言ってややはにかんだような笑み浮かべると、ふと何かに気づいたのか少女の周囲を見やる。どうやら、あの時とは少し状況が異なっていることに勘づいたらしい。すぐに物問う声が返ってきた。
「今日は彼と一緒じゃないのか? 確かロイドと名乗った」
「あ、ロイドのことも……。あ、いえ、あの子は今日寮の部屋にずっと籠っていて」
「そうなのか」
「昨日、その、色々あって……」
するとふいにソフィーの顔色が暗くなる。にわかに思い出したのはそう、言うまでもなくロイドのこと。今も部屋の中で、膝抱えてぼうとしているはずの……。
鳴り止まない雨音耳にして、一体何を思っているのだろう。
「……そのこともあって、ロイド、凄く落ち込んでいるんです。昨日からずっと」
そしてそんな憐憫誘う情景ゆえだろう、彼女はかえってその瞬間何か良いことを思いついたと顔をパッと明るくさせると、勢いファイへ向かって頼みこんでいたのだった。
「そうだ、だからファイさん、今度ロイドに会ったら、元気づけてやってください! あの子も、きっとあなたと会うと喜ぶと思うから!」
むろんついさっき手に入れたアネモネは、しっかりと離さないまま。
今日ここへ来た目的も、ほとんどロイドのためのようなものとなってしまったのだから。
結局、いつも彼のことを気に掛けているように――。
そうしてそんな不思議な依頼に、刹那物問いたげな色示し考えこんだファイだったのだが、
「……ああ、分かった。何があったかは知らないが、近いうちに、な」
……やがて彼は穏やかな笑み浮かべると、次第に雨勢強くなってきた天候の中、ソフィーの心を何とも躍らせる言葉、颯爽と返してきたのである。