16.幻想の終わり
それはまさしく晴天の霹靂というやつだった。
長々とした4時間目の授業が終わり、ようやく待ちに待った解放時間――昼休みが始まってすぐの頃。
「おい、大変だ!」
イザークと二人の悪友がもの凄い勢いで教室へ駆けこんできて、突然血相変えてあれこれ騒ぎ始めたのだ。
「お、おい。どうしたんだよ、いきなり」
「そうよ、とにかくまずは落ち着きなさいよ」
「うるさい、これが落ち着いてなんかいられるか!」
むろん最初はそうして何でそんな大声を出しているのかと、ほとんどがあからさまに怪訝な顔するばかりの級友たちだったが、しかしやがて話聞くうちにそこまで慌てている理由が段々分かってくると、途端全体のざわめきも決して看過しえないものへと化していく。
「教会兵がクレオナを捕えに来たんだ!」
そう、何よりその言葉の内容が実に高い迫真性でどこまでも満ち溢れたものであったとすれば。
「ど、どういうこと、それ?!」
「知らねえよ、とにかく何か犯罪でもしでかしたんだろ!」
「ちょっと、クレオナさんに限ってそんなことあるわけないじゃない!」
はたしてすぐ、ロイドの件もあり日頃から彼女と親しく接しているソフィーが勢いイザークへ問い詰めようとしたが、むろん相手は相手でさすがに何か他の有力情報掴んでいるわけでもない。結果として何一つ答えらしきものはなく、飽きもせず二人の不毛なやり取りがまたもや開始されるのかと思われたのだが――。
「ほ、本当だ、教会兵が小屋の方へ行くぞ!」
しかしその時他の生徒が驚きに満ちた大声突然上げたため、たちまち二人のみならず皆の視線は、そちらの方へ一斉に向けられていたのだった。
――アーケード越しに広々とした中庭、その片隅へと。
ここからだと大分遠くの方に感じられる、小さな木立の向こう、庭園の東北隅に当たるそこには……。
◇
「あ!」
「おい、どういうことだ、これは!」
クレオナの腕を乱暴に掴んだ教会兵の一人を眼にして、アトリが激高の余り声轟かせる。
むろん彼らは突如として小屋の扉蹴破り侵入してきたので、下卑の男には何一つ、そう叫ぶ以外一切抵抗する術がない状態だ。まるで人さらいの所業とでもいうべきか、しかもそのままさらに加勢もついて白髪の娘を強引に外へ引っ張り出そうとまでしており、もはや有無を言わせぬ緊迫の度極めた状況。
ゆえに絶対そうはさせじとアトリがすぐさま何とか中にいた兵の一人へ掛け合おうとしたのも、むろん今はしごく当然の行為でしかないのだった。
「ま、待ってくれ、クレオナをどうするつもりなんだ?!」
すると手首を掴まれたその中年くらいと思われる兵士は、さも面倒そうに、加えていかにも蔑んだ目をして仕方なしと応じてくる。
「どうするって、そりゃ決まっているだろう。これから牢屋へぶち込むんだよ」
「な、何だって? 彼女が何をしたって言うんだ!」
「ふん、どうやら同居人ながら何も知らないようだな、この女がどんな罪を犯していたのかを。だったら教えてやるぜ。こいつはな、一連のボルグ事件に深く絡んでいたんだ」
「な、何?!」
そうしてさらに嘲るように兵士は言い放ったが、むろんアトリは余りの内容に知らず絶句しつつも、すぐにはそれを理解できない。そう、そんなこと言われてもにわかには今連れ去られつつあるクレオナとうまく結びついてくれないのだ。いや、むしろこうなると目の前の男が自分を馬鹿にして面白くもない嘘を吐いているとしか思われず……。
「ふざけるな、そんなこと信じられるか!」
当然さらに怒りは膨らんでいく始末なのだった。
「でたらめを言いやがって、本当のことを言え!」
「あん? この野郎、人が親切に教えてやったのに、何だその態度は!」
「だから何でクレオナがボルグと――」
「知るか、俺がそんなこと。とにかくこの女は街で霧を発生させたところを目撃されているんだ!」
かくてますます怒りがエスカレートし、ついには男へ掴みかかろうとするアトリ。だがただでさえ鍛えられたその身体は相手にとって充分脅威だったはずだ。よって兵士がたちまちギラリ瞳の色鋭くし、かえって剣呑な空気放ち始めたのも当然の反応であった。
「貴様、それ以上近寄るとただじゃおかんぞ!」
「く……」
「そもそも重罪人の知己なんだ、貴様にだって何か関係が――」
「待って!」
そうして怒りの火が連鎖し、狭い小屋の中で二人の男が激しくもみ合い始めそうになった、その時。
「アトリは本当に何も知らないの! この件に関わっているのは、私だけなんだから」
今まさに屋外へと引っ立てられて行きつつあったクレオナが振り返り、哀願するような顔で必死に叫んだのだった。
「そ、そんな、クレオナ……」
むろんその一言はたちまちアトリをして絶句させる。彼女がそんな大それたことをしていたのもそうだが、何よりその重大過ぎる秘密、自分にひた隠しにしていたという事実自体が余りにも衝撃的だったのだ。
そう、途端ふらふらと目眩起こしたように兵士から離れてしまったくらいで。
「……ごめんね、アトリ。あなたのためにも、こうするしかなかったの」
そんな恋人へ、今にも泣きだしそうに言葉掛けるクレオナ。もちろんその声音も分かり易いくらい震え帯びていた。
「何で、何も言ってくれなかったんだ……」
「私のやったことは、教会に背くことだから。あなたを巻きこむわけには」
「いつも一緒だったのに」
「……」
対してアトリは、呆然と立ち尽くしながら、苦痛に耐えるがごとく呟き洩らす。彼を襲った絶望感がいかに巨大なものだったかが分かる、それはそんな哀切な一声である。
何といっても、かつて人生の最後まで添い遂げると、深く約束までした二人だったのだから。
「――ふ、こんな所で白状しやがるとはな。後で拷問する手間が省けたぜ。まあだからと言って罪は軽くならないが」
「……だめだ、絶対に行かせない」
「何?」
「君と、離れ離れになるわけには」
一方そのやり取り傍から見ていた兵士は半ばぼうとしていたものの、しかし娘が突然自白めいたことしてきたので喜色満面、もう同居人のことなど放っておいて自分も外へ向かおうとする。それゆえアトリが続いて熱っぽく呟き零していたことに、僅かながら気づくのが遅れてしまったのだった。
「! 何をする!」
しかもそのほんの一瞬の隙を突いて、アトリが突然近づき彼の腰へ差したサーベルの柄がっしと掴み取ったことにさえも。
「しまった!」
「クレオナは俺と一緒にいるんだ!」
「おい、あいつ剣を手に取ったぞ!」
「アトリ、やめて!」
そして下卑の男が剣引き抜くや、たちまち恐慌の舞台と化した、小さな小屋。
仁王立ちしたアトリが鬼の形相で恋人の腕掴む兵士睨みつける。
「やらせるかよ!」
怒気はますます、とめどなく高まって。
はたして、かつてロイドを治療した時の温かさはもうここには欠片一つ残されておらず。
急激に早回しになったのは、時の流れ。
「ええい、誰かあいつを早く仕留めろ! 反逆者だ!」
途端響き渡る男たちの絶叫。若い娘の泣き叫ぶ声。床を踏み鳴らすいくつもの荒々しい靴音。
――サーベルを一斉に引き抜く音。
「ウオオオ!」
そんな二人にとってのただ一つの安息所だった場の中、アトリは雄叫び一下、ついに剣手に取ったまま出口付近のクレオナ助けんと決死の覚悟で突撃始め――。
◇
ロイドは、今自分が見た光景が心の底から信じられなかった。
むろん、そこはまだ教室の中だ。外に出て状況確認しようにも、それは教師に固く禁じられてしまっている。
だが、それでもありありと何が起きたか理解できたくらい、その情景は余りにも衝撃的過ぎたのだ。
アトリが殺された。
あのいつも優しく、力強かった兄のようなアトリが。
しかも周りを兵士たちに囲まれ、嬲り殺しにされるように。
それほどまでに、教会兵のやり方は微塵も容赦がない。それはまるで悪趣味な獣狩りに興じる、貴族たちのごときですらあった。
そう、その有り様をすぐ傍で見ていたクレオナが、途端狂ったように泣き叫び、ついにはその場にくずおれてしまったほどに。
何より、兵士たちはアトリを生きたまま捕えようとは少しも努力していなかった。10人以上はいたのだ。これが普通の民相手なら、まずは動けなくさせようとするのが常識であろう。
しかしいともあっさりと、アトリは無情にもまず背後から斬りかかられ――。
(そんな……下卑の人には人権がないっていうの?)
そうして当然の如く零れる、心の中の呟き。それはまさしく見てはいけないものを見てしまったという驚愕と、そして嫌悪感に他ならなかった。
特に、その相手が教会の手の者だったならば。
(あれが、神に仕える人たちの――)
すなわち、聖なる技でもって、民衆へ救済与えるべき。
そんなロイドの呆然とした心を鏡写しにしたように、いつしかしんと静まり返っている教室内。ソフィーは信じられぬと目を大きく見開き、イザークですら今は何も言うことできず、そしてダビドとポールは驚愕で身体震わせ……。
そしてロイドの中では、次第に何かが壊れてゆくように感じられ。
――今の今まで、そう、ずっと大切に築き上げてきたものが。
周囲では、状況確認しようと教師たちが慌ただしい動き一斉に見せ始めている。
どうやら、彼らにしても余りに突発的な、何も知らされていない事態だったらしい。
すなわち、それくらい教会が本気だったような。
あるいはそれが非常なる現実というやつなのか、かくてそのあまりの衝撃に身動きすら取れず、いつまでも眼前の情景凝視し続ける生徒たち――。
……そしてそれゆえだろう、少年は兵士たちがクレオナとともに引き上げ、後にはただアトリの死体が何の処置もなくあっさりと打ち捨てられたのを見ても、もうその頃には大した動揺覚えることさえなかったのである。
ただ、どこか頭がぼんやりとしたまま。
――そう、まるでそれは、いつしか次第に雲がかかり暗さを増していった昼下がりの中、途轍もなく悪い夢でも見ていたようで。