15.三つ巴
「くそ、俺の店に入って来るな!」
ボルグの強烈な左腕が風音立てて思いきり振り下ろされると、たちまち店の壁に大きな穴ができた。
肉屋の看板下ろした、そこは衆生区の一画にある商店だ。
中にはまだ店主が一人残っていて、何とか魔獣を侵入させないようにバリケード築いているらしい。先程から、暴虐なる侵入者へ向かって次々と悪態も放たれている。
時刻にしてもう大分辺りが暗くなった、12時課過ぎのこと。
丁字路の、そのちょうど左右に分かれた突き当りの部分。
その余りの獰猛さに教会へ救援呼びにでも行ったか、周囲には全く人の姿がない。いや、いたとしてもすぐ恐慌に塗れ、いずこかへと逃げ出す者たちばかりだ。
すなわち今まさに最近巷を騒がせてやまないボルグ出没事件が、現在進行形で騒然と起きていたわけだから。
――ボルグ。
錬金術の粋を集め、<相>を合成することによって創られた、本来は対外部用の魔獣。
全身緑色の肌をしており、それはゴツゴツと鎧思わせる堅牢さ持つ。
何よりその顔はトカゲを巨大に、そしてさらに凶悪にしたもので、口は裂け、黄色い瞳は恐ろしくギョロついて、見る相手を心底から怯えさせるに充分過ぎるほどだった。
ましてやその腕と脚の筋肉は、隆々とたくましく盛り上がり――。
「畜生、早く誰か来てくれ、もう持たない!」
それゆえさすがの気丈な店主も、段々と烈しくなる攻撃にたまらず弱音いつしかはっきりと吐き始め、それは店が潰されるまで延々続くかと思われたのである。
「――グウ?」
「え?」
……すなわちその時、唐突に魔獣が何か大いなる脅威感じ取ったのか怪訝そうな一声とともにピタリと動き止め、後ろ振り返ることさえなければ。加えて途端、もはやそれまで襲っていた肉屋のことなど明らかに忘れ去ったがごとく、新たな相手へ烈しく牙剥きさえしなければ。
「ガウウ……」
はたして彼の者をそうやって突如強かに慌てさせたほどの圧倒的存在感で視線の先、道の向こうで静かに待ち構えていたのは――。
「この前の奴か……。また会うとはな」
そう、そこにいつの間にか立っていたのは、美しい銀髪が宵闇に眩しく映えるあの紫瞳の青年、若き錬金術師ファイに他ならないのであった。
◇
かくて薄暗い街角、瞬時に互いを倒すべき敵と認め合った両者。ボルグは鋭い爪を威嚇的に前へ突き出し、ファイは引き抜いた剣を正対して構え……。
だが身長にして、双方の間には頭二つ分以上差があったかもしれない。しかも強靭な筋肉と鋼の肌に鎧われた魔獣に対峙するのは、傍目には細身で儚げですらある青年。いくら彼が錬金術師であるとはいえ、まともに正面からやり合ったところで勝負の行方など最初から分かりきっている。
はたして、そんな戦のために生み出された恐るべき相手を前にして、美しき青年には僅かでも勝算があったのか――。
「ガウウ!」
いずれにせよ、怖気催す雄叫びとともにぐっと背を屈めたボルグは勢い突撃仕掛ける体勢となり、青年も腰を落とし迎え撃とうとする。
俄然、緊迫の度増しゆく空気。
爪と刃。黄色と紫。創られた獣と、謎めいた錬金術師。
今にもそうして睨み合う両者は路上で激突しようとし。
そしてまずはボルグの方が、ぐっと前へ飛び出ようとした……。
「ム!」
しかし、その時。
「邪魔な!」
――突如としてその瞬間ファイは左方向から何かが飛来してきたのを察知し、かくしてその死闘は寸前、取りやめとなったのだった。
刹那、高らかな金属音とともにファイの剣があっさり撃ち落とした物体。
地面に当たり、二、三回跳ね上がった鋭利な銀刃。
柄のやや曲がった、直刀の輝けるダガー。
間違いなく、見た記憶のあるこれの持ち主は――。
「よう、久しぶりだな」
全身黒衣の若者はそうして皮肉げな笑み浮かべると、丁字路の左方の道よりファイの姿をじっと睨み据えた。
その冷たくも美しい容貌は間違いなく、この間裏町で錬金術師襲った三人組の一人だ。そしてさらに付け加えれば……。
「しかしつくづくこいつとの腐れ縁がある奴だ」
そう、ボルグのことを親しげに示したその男は、同時にそれから二日後侍人区の酒場でロイドと邂逅した、あのキルヒトなる若者に相違なかったのである。
むろんファイはまだ彼がそうしたことをしていたとは露知らない。あの少年ロイドと何らかの関係を持っているなどとは。
だがいずれにせよファイを再び襲い、さらにボルグを仲間のごとく扱うというならば、どう考えようと彼にとっては敵以外の何物でもなかった。
すなわち、今すぐにでも斬り伏せるべき。
それも極めて危険な。
それゆえ油断ならぬ瞳で相手鋭く見据えると、
「そして、お前とも、な」
静かにして冷ややかな声で、そう宣ったのだった。
むろん、その言葉に礼儀正しく反応返すキルヒトのはずもない。畢竟彼はファイよりもさらに冷たい様相で笑み浮かべると、ふいに腰のあたりから細長い棒状のもの取り出したのだから。30エルほどの長さで、側面に幾つか穴の開いた木製と思われるそれを。
そう、まさしくその棒は笛。しかもファイにとっては確実に思い当たる節のある……。
「……それは、あの日広場で吹いていた笛か」
「フ、憶えていてくれて光栄至極だ。何せこれは俺にとって命の次に大事なものだからな。すなわちこの笛さえあれば、あの錬金術師どもをまとめて滅ぼすことのできる」
そして続けて放たれた恐るべき大言。まさしく教会の人間がいたらそれは不敬罪どころで済まない発言だ。
「ではせっかくだから質問しよう。お前には分かるか、これの持つ力が?」
さらに彼の強気の言明は引き続く。
「獣使いの笛――そういうことか」
「――フム、さすがだな。まあそんな難しい問題じゃなかったか。そうだ、この『獣の司』なら、この世のあらゆる野獣自在に操ることが可能だ。しかもそれはただの動物だけじゃない。それこそディクロートが野に放った化生どもや、何より――」
「ボルグたち、でさえも」
だがそこで、対照的に実に冷めた口調でファイが口を挟んできた。その変わらぬ様相からするに、彼にとってはキルヒトが得意気に語ったのは特に驚きに値するものではなかったのかもしれない。
「なるほど」
――何よりその証拠に、ちらといまだこちらの様子窺っているボルグへ視線やる余裕さえ、十二分にあったとすれば。
その素振りへやや鼻白みながらも、間を置いてからキルヒトは結局語を継いでいた。
「……そういうわけだ。だから俺はこの力を絶対に使わなくてはならない。目の前にたとえどんな邪魔が入ろうとも」
「何が目的だ?」
「ふん、そんなこと教えるはずがないだろう。いずれにせよ、敵でしかないお前には」
そしてもう無駄話は終わりとばかりに彼はふいに笛を口元へ持っていくと、
「何よりも、ここで死ぬ運命にある奴には」
まさしく一息に、その音色暗さ増す街角へ響かせようとしたのである。
「反徒どもが!」
――だが。
まさにキルヒトの息が自慢の笛の横穴へ吹きこまれるかという、その寸前。
ファイが剣の柄持つ手にぐっと力を入れた、僅か一刹那。
その時。
「グルオオン!」
右の道から轟いてきたその絶叫にボルグがただならぬ雄叫びで反応示し。
二人の男もふと第六感のもと、一斉にそちらを振り向いた直後――。
「!」
「うお、これは?!」
突如として凄まじき勢い持つ猛吹雪が襲来し、衆生区の街角辺り一面は、一斉に冥府の如き極寒へと包みこまれていったのだった……。
◇
数分後、通りの真ん中に傲然と仁王立ちして周囲見やる男の姿があった。
身長180を優に超す巨体に、総髪と青い眼。茶色いジャケット纏った、それはアーレムの執政が一人、ボルコフである。全体に凍りついた一画の中で彼のみは何の影響もなかったのか、率いてきた10人ほどの教会兵たちとは異なり、まるで平然とした状態保っている。むろん吐く息も全く白くはなく、それは常のガメリオンの月に見せる姿と何ら変わりなかった。
そう、自らがまき起こした現象で、ここまで惨憺たる状況もたらしてしまったというのにも関わらず、むしろ静粛と。
――それはまるで北国の真冬の一情景だった。
路上、建物の壁ともに完璧に凍り付き、家の廂からは巨大な氷柱まで垂れ下がっている。氷が分厚いこともあり、少し歩いただけで簡単に転んでしまいそうだ。何よりも漂う空気がその丁字路周辺だけいまだ切り裂かれるように冷たく、少し吸いこんだだけで肺がダメージ受けそうなほど。
すなわちそれは間違いなく、通常の自然が起こしたものとは余りに異なる超常現象。それも間違いなく、錬金術の秘技がしかと関わった……。
「ボルコフ様、ご報告いたします!」
と、巨漢がしばし周辺の状況窺っていると、そんな彼に呼び掛けてくる声があった。
振り返るとそこには白の膝丈の上衣に白のズボン、そして青いケープ纏った一人の兵士の姿。言うまでもなくアーレム市の精鋭たる教会兵だ。頭には青いベレー帽も被った彼は、その場に直立しピシッと姿勢正しくしながら、上官へさらによく通る声で状況の報告してきた。
「被害状況としては肉屋が御覧の通りですが、しかし直前までここにいた二人の男は、もう姿を消してどこにもいません。恐らくボルコフ様の攻撃に退いたかと。残されていたのは、従って――」
そうしてまだ若い彼がはきはきと語を継いでいくと。
「――あのボルグの死骸一つ、か」
その言を引き取るように、最後はボルコフが締めていた。
それも、常以上に冷ややかな光、その瞳に宿らせて。
「……はっ。その通りです。では、死骸の方はどういたしますか?」
「まさかそのまま捨て置くわけにはいかんだろう。さっさと人目につかぬうちに焼却なり何なり、処分する必要がある。急いで運び出せ」
「かしこまりました!」
かくて兵士は冷厳な命が少しの間もなく下ると敬礼返し、その言の通り次の行動に移るべくボルコフの元より走り去って行った。何の躊躇もない、まさに機械的とでも言うべき反応だった。
すでに輝き放ち始めた半月に、朧な影を足下へ落とさせて。
「二人の男……か」
その遠ざかる背中、そしてさらにその先にある、路上で完全に氷の中に閉じ込められ絶命したボルグの亡骸見つめながら、やがて執政はふと小さく呟き洩らした。基本感情籠もらぬ声で喋る彼だが、しかし今はなぜか妙にその中に揺らぎのようなものが垣間見られる。
――夏の空気にようやく季節外れの冬の世界も敗れ始め、次第にその気温によって氷があちこちで溶ける音、かしましくさせてきた中。
その手は、腰のサーベルに掛けられたまま。
そう、確かに兵士の言った通り、小憎らしいにも二人のあの不審者は自らの攻撃かいくぐりいずこかへと逃げ去ったのだろう。一瞬見かけた、銀の髪および黒髪した両者は。
だがそんな彼らが最近のボルグ事件に深く関わっているのはまず間違いないと見て良い。
それも、かなりの重要な役割持って。
「逃げられると思うなよ」
そして続けて知らず零れた声。それはまさしく溢れんばかりの怒りの感情押し殺した危険な響きで。
「必ず、お前らの正体突き止めてみせる」
――ゆえに氷の如きその青瞳にも、いつしか瞬間全てを凍りつかせる冷たい炎が、そう、隠しようもなく揺らめいていたのだった。