13.酒場の招き人
そこは、規模としては中程度の酒場だった。
宿は経営していないらしく、カウンター席と六台のテーブルで構成された平屋の建物はほとんどが飲食用スペースとして使用されている。また内装に関しては茶色を基調とした落ち着いた色合いの家具など用いそれなりに凝った造りで、さすがは侍人区の店、衆生区以下の安いが怪しくもある酒場群とははっきり格が違っているといえよう。
何より、出てくる手の込んだ料理のかぐわしい匂いがまだ夕飯には早い時間とはいえ、いやそれゆえにか、あからさまなまでに食欲を誘うのだ。すなわちロイドがそのメモで指定された店、『露草』へと急ぎ駆けつけ、そのとば口に立った途端、知らず自分がかなりの空腹だったとまざまざ思い出していたのもしごく当然の生理的反応で――。
(えっと、ファイさんは……)
とはいえここに来た以上、まず何を置いても少年にはやらなければならないことが存在する、それは厳然たる事実なのであった。そう、それはとにかく焦慮さえ覚えるような事態を何とかするための行為――ファイへの忠告。
それも何となくだが、一分一秒、いや刹那でも早い方が良いような。
……それゆえ彼が知らずすぐさまその場からあの青年の姿求め、キョロキョロ忙しなく見回していたのも、その焦れるがごとき内心思えばむろん必然的かつ妥当な光景だったのである。
時刻はちょうど9時課と12時課(午後6時)の間くらい。そうして眺めた店内はすでに大勢の客でなかなかの賑わい見せている。特にテーブルの方はそれぞれ数人ずつのグループによって全て占拠され、もはやその出来上がった酒宴がかしましいほどだ。
よってまさかファイがそちら側で一緒になって陽気に騒いでいるとも思われず、ロイドは自ずとその目線左側、カウンターへと向けていたのだった。
はたして彼はどこで待っているのかと。
教会があなたを探している、そう伝えなくてはとどうしても逸っていく気持ち、何とか抑えつつ――。
(おかしいな、ファイさん、いないぞ……)
だが、カウンター席をいくら仔細に見つめても、それらしき人の姿は一向に発見できない。手前から奥まで、座しているのはまるで見知らぬ者たちばかりだ。その各々が一人か連れ立ってか、目の前の料理と酒を存分に堪能している。どこまでも生き生きと。その中にあの錬金術師がいまだ影すら置いていないのは、もはや動かしようのない事実でしかなかった。
(もう帰っちゃたのかな……)
当然ながら、徒労感とともにそんな思いも俄然湧いてくる。確かに寮の管理人の話ではこの店で男が待っているということだったが、しかしそれはまだ陽の高い午後のことであったはずだ。今は九時課大分過ぎた頃だから、考えてみればまだ酒場にいるというのもおかしな事態。心の呟きの通り、彼がもう店を後にしたとしても何一つ不思議な行動ではなかろう。そう、たとえ相手にどんな用事があったにせよ。
よって結局のところ、今日ロイドがファイに再会することは……。
「あら、誰か探しているの?」
――その時だった。
ふいに横から声を掛けられ、ロイドの黙想は途端破られていた。
「は、はいっ?」
その突然の女性の声に、知らず慌てながら振り返る少年。それは酒場入って右側、テーブルが並ぶ方からだった。青の瞳が、そこに赤い服の上エプロン付けた30代ほどの女性の姿捉える。それまで接客に勤しんでいた、どうやらここ『露草』の店員のようだった。
「親? それとも友達?」
そうしてそのまま、明るい笑顔示して穏やかに話を続けてくる。どうやらロイドが誰かとここで待ち合わせでもしていたのはまず確実と判断したらしい。その声音には明々と気遣う気持ちも分かりやすく籠っていた。
「あ、はい。若い男の人と……」
「あら、そう。じゃああなただったのね? 良かった、気がついて」
「え?」
そして少年が少し驚き残しつつもポツリと答えると、たちまち店員はパッと顔色さらに明るくさせた。その様は、まさに安堵したという風そのものだ。はたして次には彼女の目線及び指は少年をいざなうように、店の奥へさっと示されていたのだから。
「あそこ、奥のほうにいる黒い服着た男の方よ。彼から、あなたみたいな子が来たら、自分の元へ案内して欲しいって頼まれていたの」
そう、はきはきと弾んだ声音で、まだ戸惑う相手促して。
かくてつられてそちらの方見やるロイド。そこ、すなわち長いカウンター席の一番向こう。この店では一番光の乏しい、妙に薄暗ささえ感じられる寂しげな一角。しかもどことなく、周囲とは見えざる境のあるような。
(あ……)
するとその二つの視線感じたか、彼の方もふいにこちらの方へ顔を振り向け――。
だが、それはまるで見知らぬ男だった。
長い襟足の黒い髪に、黒曜石を思わせる黒い瞳。特にその瞳は切れ長で美しいながら、どこか冷笑的な眼差しを同時に放っている。またその下の鼻はすっと通り、唇は薄く、まずはかなりの美形に価すると言っていいだろう。だが、どうにも気安く声を掛けられない雰囲気がそこにははっきりと濃密であり、何よりも全身黒ずくめ――革の短いジャケットにシャツ、ピッタリして細めのズボン、そしてブーツに至るまで――のいでたちがロイドをして一瞬気圧されたような感抱かせていたのである。
「君が、ロイド君か」
かくて店員に案内されるまま隣の席に着くや、落ち着いた口調で呼び掛けてきた男。ロイドを見ても何一つ怪訝な顔示さなかったのを見ると、やはり少年に会いに来たのはこの若者で間違いないようだ。
と、いうことはつまり、ロイドのことを多少なりと見知った存在でもあるということなのだろうか。
「はい、そうですが。……それで、あなたは?」
しかしはたしててっきり招き人はファイだと思っていた当の少年にとっては、どう自分の記憶を丹念に掘り下げても、その中にまったく該当しない存在としか言いようがない。そもそもこんな胡乱な空気を放つ知り合いが出来る可能性など、彼の環境ではまず皆無なのだから。
「フ、名前か。ただ言ったところで、君はまったく知らないだろうが、しかしこうやってやっと話ができるんだ。まずは名乗ることとしよう」
そう、それゆえ相手の訝しげな顔へ安心させるように若者が一つうなずき、そして
「俺の名は、キルヒトという」
と、続けて自らの名静かに告げてきても、その言に違わず、それはまるで未知に属す響き以外の何物でもなかったのである。
「キルヒト……さん?」
「ああ、そして君がロイド・ラクティ。錬金術師アベルの息子」
「は、はあ」
かくてようやくにしてロイドが腰を落ち着けると、目の前の若者――キルヒトはさも親しげな感で話を始めた。お互い初対面にも関わらず、そこには警戒や緊張感が欠片もない。どうやら先ほど予感した通り、彼はどこかでロイドのこと知る機会があったらしい。
むろんだからといって対する少年の方がすぐ打ち解けたかと言うと、決してそんなことはあり得なかったのだが。
「少しばかり時間をくれないか? 君と話したいことがあるんだ」
「僕と、……ですか」
「ああ、色々と。まず、君の着けているそのペンダントをよく見せてほしい」
しかも若者の最初の話題は、何とも奇妙としか言いようのないものだった。すなわち、ロイドが常に首から下げているそれを、どうしてか確認したいと言っているのだ。三日月の飾りが先端に付いた、さほど高価なものとは思えないありふれた銀色のペンダントを。
知らず訝しげな表情露とした少年に、しかしキルヒトは変わらず冷静な口ぶりで続けた。
「何、外す必要はない。ほんの少しの間、見てみたいだけさ」
「……そうですか」
むろんそうまで言われると、わざわざ拒否するのはかえって難しい。従ってやや躊躇い残しつつも、結局ロイドはそっと鎖の先の小さな三日月、相手へと差し出している。
「なるほど、これは――」
対して途端その三日月慎重な動作で手に取り、感慨深げな声上げたキルヒト。
別段目立つ特徴があるわけではないそれを、しばしの間じっと目の前にかざす。黒曜石の瞳が一瞬何かの感情――哀しみか驚きか――で揺れ動いたほど、それはあからさまなくらいの反応だった。
そうして十数秒、何も言わず時がそのまま経過すると――。
「――これは、どこで、誰から貰ったものなんだ?」
キルヒトが静かに、しかしある種の熱を含めて口を開いた。
「えっと、小さな時からずっと付けているんで、もうそういうことは……」
「なるほど、幼少の頃には既にあった、と」
「……?」
だが、若者の言葉は相変わらずロイドにとってピンとくるものがない。むしろ怪訝さはますます深まるばかりで、彼はどうしてそんなことを、と相手の思慮深げな様子、傍からただ見守るしか今は術がないのであった。
「ありがとう、もうこれでいい」
僅か刹那の後、そうしてふと一つ頷くと、キルヒトは銀の三日月から目を離し少年へ差し出してきた。何やら胸の中につかえていたものがやっと一つだけ取れた、そんな表情だった。
「知りたいことはこれで叶った。礼を言う」
「え?」
「それで、話は変わるんだか」
そしてもう思い残すことは何もないとばかりに、その面がさらに増して翳を帯びていく。ロイドにとってはやはり、自分とはあまりに異質なものとしか思えない暗さである。
何よりその瞳の色が、瞬間吸いこまれるような深い漆黒を現わしていったとなれば。
「君の力を、俺に貸してくれないか? 褒賞として、この街の真実を知る代わりに」
すなわち、次にはそんな不意を突いた言葉、声を落として告げてきたように。
ロイドは知らず、はたしてその鋭ささえ垣間見えた様相に、ゴクリと唾を飲みこみ――。