12.下町の老婆
街の区画というのは、おのずとそれぞれが際立った空気持っていくものらしい。
特にアーレム市は真ん中の侍人区を境として上の聖家・貴種と下にある衆生・下卑の差異がもはや別格と言っても過言ではないレベルで、実にこの両地域が本当に同じ町を構成しているのか深い疑いすら容易に差し挟めるほどだったのである。
そう、広く清潔な道、中庭や泉を囲んだ瀟洒な大邸宅、荘厳なる公共建築群が余裕を持って展開する白の丘中心とした上層区に比べて、その周囲、下層二区の眺めとなると途端狭い道が迷路のように入り組みだし、そんな中所狭しと小さな家々がおびただしく並ぶ、しかもそれらは皆今にも壊れそうな、いかにも安普請の建物ばかり、というありさまだったのであるから。
そして中でもその店のある場所は入口辺りとはいえまさに街西端部のもっとも悪名高い下卑区の一部であり、住環境の劣悪さはとても通常容認できるもののはずもなく、従ってそれにも関わらずその区域でなお住み続けている者となると――。
◇
「ほう、これは……」
もう陽が大分傾いた九時課(午後3時)過ぎ、店台の上に置かれた2枚の金貨しかと認めると、白い蓬髪した老婆はさも驚いたという風に口を開いた。
「間違いなく本物の、それも上質のやつだね。悪くない、どころかむしろ高過ぎるよ、あんた」
そして椅子からぐっと身を前へ乗り出しながら、その2枚を、次いで台の向こうに座した奇妙な青年の方を順番にじっと見つめる。それはやや濁りがあるが、しかしいまだ往年の鋭い輝き宿った眼差し。すなわち黄土色のローブ纏った小さな身体から放たれる油断ならない雰囲気およびその灰色のギョロリとした瞳見れば一目瞭然、間違いなく下卑区のしなびた薬屋『白羊堂』の主人はその年齢分ただならぬ経歴経てきた女性のようだった。
「ここじゃ一番の情報通のあんたに、是非とも聞きたい話なんでね。対価としては十分だろう?」
「ふむ、あのことに関してか。ただ、あたしもそんな凄い事実知っているわけじゃないからねえ」
「その知っていることだけでいいんだ。とにかくごく僅かでも」
そうして場違いなまでに美しい瞳で見つめ返してきた青年――ファイは、その声音に今やはっきりと真剣な響きこめる。
相も変わらず怜悧な面立ちしているが、今日はよほど大事な用事があるのだろう、纏う雰囲気もどことなく鋭利な刃のごときだ。それゆえ老婆もその態に押され、次には仕方なしとばかりに溜息混じりに頷き返していたのだった。
「まあそうだね、そんなに言うなら。要は昔下卑にも関わらず聖家の男と結ばれた女がいたかってことだろ?」
「ああ、どうやらその事実はこの街ではひた隠しにされているようだが」
「そりゃそうさ。何せ男の親や一族が、総出になってもみ消しに動いたって言われているから。それゆえ、そこがどの家かはほとんど誰にも知られていない」
「それで、女性の名前は」
対して青年は表情まるで変えることなく続けて問うてくる。何が目的かは皆目見当もつかないが、その果てなき熱意には充分驚くべきかもしれない。何より、彼の訊ねた話の内容があまりに要領を得ない過去の出来事であったとすれば。
「――サーラ。下卑区の中でもさらに奥の方に住んでいた娘さ。かなり貧しい家の出身だったと聞いている」
「子供がいたはずだ」
「……詳しいね。それなりに調べてきたのかい?」
「男との間に一人授かり、そしてその後女性は間もなくして亡くなってしまったとも」
そしてそうファイがつと斬りこむと、きらり、老婆はその眼を鋭く光らせたのだった。
「それは事実だね」
あからさまに意味ありげな笑みまで、口許へ零して。
「やはりそうだったか……」
「もっともサーラの子供を見た者はこの辺りには一人もいない。そう、彼女はどうやら男に連れられ上層区の方で子を産んだ後、まるで追い出されるように下卑区へ戻ってきた。その時には産後の具合が悪く、ほとんど床に臥す状態となっていたが。そして知り合いがサーラにその子の父親の名前を問うても答えることは絶対になく、一月後そのまま帰らぬ人となってしまったのさ」
「……なるほど。聖家の男も、子供も、名前一つ知られていないのか」
「そう、聖家の連中が、固くサーラに口止めしていたんだよ。恐らく下手なことを言ったら、子供に何が起こるか分からない……要は人質にされていたんだろうね」
その言葉はどこか儚げで、あるいは老婆は過去の女に瞬間憐れみを覚えていたのかもしれない。確かにそう思わせるほど、彼女の辿った運命はまさに数奇そのものだった。
女性としての幸福を全て奪われたように。
「他に詳しく知る者はいないのか?」
するとそんな物思い途切れさすように口を挟むファイ。束の間の感傷など自分には無縁、とでも現わしているがごとき対照的で静かな口ぶりだ。
当然ながら、その言葉は老婆にハッと眼を刹那大きくさせた。
「……当時のことを、か。いや、ほとんどいないね。やはり上の連中が周到に手を尽くしたっていうから」
「一人も、なのか?」
「まあ、誰一人知らないって訳でもないが……」
と、だがそこで老女は妙に口ごもる。どうやら彼女にとってもかなり微妙な線に当たる情報が、記憶の中一つだけあるらしい。
そしてむろん、その僅かな瞬間に起きた変化を見逃すファイのはずもなかった。
「一人はいる、ということか」
「いる、というより、いた、というべきか」
「……もう故人、なのか?」
そこで挟まれる、ひと時の間。それは思い出すというより、憚られることを言う時に生じる躊躇いのあわいと見て相違なかった。
「いや、違うよ。というか、違うと思う」
あくまで憶測の混じったような、その次なる言葉を耳にすれば、特に。
◇
「――キルヒト?」
「そいつも下卑だった人間さ。当時で年は7、8歳。まだ子供だった」
「その子供が、サーラとよく会っていたと」
「確かに仲は良かったよ。というか、サーラは良く孤児のキルヒトや、その仲間の面倒をまるで親代わりのように見ていたからね」
かくて始まった老婆の昔語りは、十分ファイをして傾聴に値するものだった。何よりほとんど外に出ることなどない下層の民の情報、こうした千耳通を通してしか聞けることはほぼないだろう。
はたして青年がじっと耳澄ましながら身体も気持ち前へ傾けたのは、言うまでもないことだった。
「だからもちろん、サーラが聖家の男と結ばれたことも知っていた。それが誰かという情報は持たなかったにしても。そして彼女がいったん上層へ行って、子供産んでから帰ってくると、今度はキルヒトや仲間たちがその面倒を見ることになる。それくらい、サーラの体調はもうひどいものだったんだ。そう、結局彼女が最後に亡くなるまで、ね」
「では、その時にひょっとしたら……」
「ああ、あの当時サーラに詳しく事情が聞けたとしたら、それは一番親しかったキルヒト以外にありえない。それくらい、まるで最後は護衛のようにずっと彼女の傍にいたんだから」
その言葉は、ファイの眼光さらに鋭くさせる。
「だとしたら、そのキルヒトは今どこに?」
すると首を横に振る老女。
「だからさっきも言っただろう? 多分まだ死んではいないと思うって」
「?」
むろん、だがそんな曖昧なこと言い返されてすぐ納得できるもののはずはない。ファイがさらににじり寄るがごとく言を続けたのは余りに当然の行為であった。
「一体どういうことなんだ、それは」
「もう分かんないってことさ、あたしには」
そうしてますます疑問が疑問を呼んできた異国の美しい青年に対し、老婆は最後に、仕方ないんだよとなだめるように、声穏やかにして告げていたのである。
「つまりはね、サーラが死んでから一年後、キルヒトは仲間たちとこのアーレムから逃げ出しちまったんだよ、それも外の荒野へ。そしてそれからどこに行ったかは、そう、何をしているのかも、もう誰にも知られていない」
――その灰瞳に、限りのない哀しみ、虚しさめいたもの微かに宿らせつつ。




