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「とても興味深かったです」
「もう読まれたのですか?」
本館ロビーで呼び止められたアリスティドはオレリアが差し出した本に目を見張った。
「実はその、読んでいると夢中になってしまって、最近寝不足なのですわ」
借りていた本を返すと言うオレリアは恥ずかしそうに笑った。勉強熱心な学友に、アリスティドも励まされるような気持ちになる。
「ちょうどほかの友人からも返されたものがあって、今日はタウンハウスに帰ろうと思っていたのです」
学院は基本的に寮生活だが、王都にタウンハウスを持つ貴族の子息は届け出を出せば外泊することができる。
「では、わたくしが責任を持って書を預かりお待ちしておりますわ」
分厚い本二冊を持って寮を行き来するのは大変だろうから、オレリアはここで待っているという。
アリスティドはその言葉に甘えて急いで寮の部屋に行き、戻って来た。
「それは?」
オレリアの視線はアリスティドが持つケースに釘付けだ。
「これは楽器です」
「もしかして、ヴィスカントでしょうか?」
「ご存知なのですか?」
「いいえ」
しかし、ケースを見ただけで言い当てた。
ヴィスカントという楽器は独特な形をしているがために、それを内蔵するケースも真四角ではない。長方形だが、片方の幅が狭まっているのだ。
完全五度に調弦された弦楽器である。弓で擦って出す音は高音だ。全長約六十センチほどしかない小型の楽器からは得も言われないうつくしい音色が奏でられる。
アリスティドはなぜそのときそう提案したのか、後になってからも分からない。ただ、オレリアの視線は熱望と言って良いものだった。
楽器は貴重で高価なものではあるが、希少というほどではない。
「触ってみますか?」
「———よろしいのですか?」
いつもなら即座に遠慮するオレリアは、そのときばかりはできればそうしたい、という意思を見せた。
「もちろん。裏庭に行きましょうか。まだ寒いから人もあまり行き来しないでしょう。———ああ、でも、指が動きにくいですね。では、温室に行きましょう」
「温室で音楽を?」
「ないしょですよ?」
植物を育てる場所でまったく別のことをしようというのだから、褒められたものではない。けれど、人差し指を唇の前に立てていつになく悪戯っぽく笑うアリスティドにオレリアも顔をほころばせる。
温室の中央には作業台があり、長方形の三方にはびっしりと棚が設えられ、植物のほか、器材や資材が整然と並べられている。四月を迎え芽吹き始めた緑に彩られている。作業を終えた後はきれいに掃除をすることが不文律であるため、台の上は埃っぽくない。
アリスティドが作業台に置いたケースを開ける。
「ああ、」
オレリアがため息交じりの感嘆の声を上げる。
中には艶やかな飴色の木製の楽器が鎮座している。
糸巻きから四本の弦が優美な曲線を持つ胴部の駒を通って緒止め板へ伸びている。
「どうぞ」
アリスティドが片手の手のひらで指し示して見せると、オレリアは恐る恐る楽器に近づいた。握り合せていた手を離し、馬の尾の毛を用いた弓に松脂を塗る。
手慣れているな、とアリスティドは声には出さずに思った。
オレリアは楽器に触れたとたん、迷いなく動いた。
左肩の鎖骨の上にヴィスカントを乗せ、顎当てに顎を宛がい挟む。
そして、高く持ち上げるような姿勢を取ったとき、オレリアのいつもの慎ましやかな風情は一変する。
堂々たる様は威厳がありさえした。侵しがたいとすら思えた。
オレリアが弓を構える。
温室の中はそれまでとはまったく別の色彩に彩られた。
瑞々しい音がその場を支配する。一時、聴覚は五感を統べた。
艶めく高音、愁いを帯びた低音。うっとり夢見るような旋律。繊細で敏速な音の羅列。
音階の間をゆらゆらとたゆたう。すう、と音がかき消えたと思ったとたん、華々しく再開する。跳ねるように高音と低音を行き来する。かそけき音が徐々に大きく盛り上がる。
それらすべてが調和を持って楽曲の終盤に導いていく。
いつの間にか、音は止み、温室に沈黙が下りていた。
「カディオ伯爵子息さま?」
オレリアに声をかけられ、我に返る。
す、と目の前に差し出されたハンカチがぼやけて見えた。アリスティドの双眸からは涙が流れ落ちていた。
「なつかしい旋律だ」
「それは、その、どういう?」
「聞いてくださいますか?」
アリスティドは物心ついたときから、この世界とは違う場所、違う光景の記憶があった。不思議とどんな人たちといっしょにいたのかは思い出せない。ぼんやりとした景色だ。明確に思い出そうとしても、すぐにあやふやに溶け消えてしまう。
「あなたの奏でる音はとてもなつかしいものだ。この世界ではない世界で聴いていたように思えます」
そう言うアリスティドの目からふたたび涙が零れ落ちる。
アリスティドには前世の記憶がある。ずっと探していた。ずっと足りないものがあるような気がしていた。
「あなたの音楽を聴いて、それが分かった」
世界は紗を隔てた向こうにあった。すべては水の中のように鈍く届く。
視界はクリアで、よく聞こえ、匂いを嗅ぎ分け、複雑な味わいを知り、触れたものの形がよく分かる。なのに、それらは深い感慨をもたらさない。
漠然とした不安をずっと抱いてきた。
そっとアリスティドの手に触れるものがあった。オレリアの手だ。小さくやわらかいそれを、アリスティドはそっと握り返す。
「わたくしも実は、ここではないどこかで音楽を奏でていた記憶がございます」
アリスティドははっと息を呑んでオレリアを見つめる。オレリアはかすかに頷いてみせた。
「たぶん、このヴィスカントを弾いていたのだと思います。なぜなら、この世に生まれ落ちて一度もどんな楽器にすら触ったことがないのに、ヴィスカントの記憶だけはあるのです」
オレリアは言った。
自分は音楽のことしか思い出せないと。
「ここではない別の世界で暮らしていたかどうかすら分かりません」
分かるのはただ、ヴィスカントを弾いていたということだけだ。
「信じます」
なぜなら、彼女が奏でる旋律はとても懐かしいものだった。聞き覚えがある。どこか欠けていたのだということが、彼女の音楽に触れて分かった。ぽっかりと空いていたものを、なつかしい旋律が埋めてくれた。
オレリアの手の感触を確かめる。確かにそこにあるのだと実感する。そんなアリスティドの心に呼応するようにオレリアは寄り添う。
「わたくしは音楽のことしか、思い出せない。でも、あなたの欠けたものを埋めるのであれば、いつでも奏でます」
そして、そっと自分の頭を抱えて撫でてくれる。そのとき、拭ったはずの涙がまた零れ落ちていることに気づいた。
「今までひとりでよく頑張ってこられましたね。よく耐えられました」
ここではないどこかを思いながら生きてきた。ここで生きていて良いと認められるために、居場所を得るために必死にやってきた。それを、分かってくれるひとがいる。それだけで満たされる気がした。
オレリアの腕の中は温かく柔らかく、息を吸うと甘い香りがした。アリスティドは心地よいめまいに襲われた。
アリスディドは初めて強い充足感を得て、身体の奥からふわりと温かく膨張する幸福を味わっていた。