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「アリスティドはその気になればどんなことでも成し遂げてしまうよ。そんなアリスティドが最も恐れていることはなにか分かるかい?」
セドリックの言葉に誰も口を差し挟まなかった。今や、その場は彼の醸し出す独特の空気に包まれていた。わずかばかりの緊張感を含みつつ、重くなり過ぎず、それでいて軽く扱うことを明確に許さない。
「それは君の気持ちだよ。君だけが、アリスティドを弱体化させることができる」
これは贈り物を受け取るかどうかの次元ではない。周囲の力を借りる、言ってしまえば利用することになっても、成し遂げようとするかどうかだ。なんでも使って実現させようという気概があるかどうかだ。
だから、アリスティドには容易に口を挟むことはできなかった。こればかりは外野がなんと言おうと、本人の意思の強さが問われる。
オレリアは青ざめながらも姿勢を崩さず真っすぐに立っていた。
「わ、わたくしがアリスティドさまの弱点になると?」
問いつつ、それを心のどこかで最も恐れていたのだと自覚し、打ちのめされた。
素晴らしい才能を持ち、どこまでも高みに上っていくだろうアリスティドの足枷になる。面倒事を彼に背負わせることを、オレリアは恐れた。そして、セドリックは慧眼でそれを見抜いていた。だから、事前にその危険を解消しておく必要があった。
「そうだよ。ただ、強みにもなる」
オレリアのせいで、と言ってしまえば弱点となるが、オレリアのために、となれば励みにもなる。オレリアがいれば、あるいは守ろうとすることで、アリスティドはどれほどまでも力を出すことができるのだ。
あちこちへ呼ばれるセドリックはそんな場面に出くわすことが多かった。そして、アリスティドもまた、そうなることができて喜ばしいと思っている。
「君はどうなの? ただ守られているだけ?」
セドリックは非情なまで深く追求した。オレリアの境遇は彼女になんの非もない。けれど、世界には自分に非はなくても業を負わされた人間はたくさんいる。それを投げ出すか、抱えて歩み続けるか、はたまた別の方策を見つけるものなのだ。
オレリアはふと初めてヴィスカントを弾いたときのことを思い出す。
胸の奥からあふれ出てくる歓喜。物心ついたときから求めていたものを、ようやく、手にすることができた。
そして、自分が奏でる旋律をなつかしいと言ったアリスティドの涙。
それらは分かちがたく結びついて記憶に刻まれている。
自分たちは同じものをずっと求め続けていた。誰にもわからない感覚を共有することができる。なつかしい旋律で、欠けたもの、ぽっかり空いた穴を埋めることができる。
思い返してみれば、オレリアはあのときから、アリスティドのために演奏しようとしていた。
「いいえ、いいえ」
気づけば、オレリアは口を開いていた。しゃがれた声を、何度も喉を鳴らして整える。紅茶でのどを潤すことすら思い至らず、続ける。
「アリスティドさまは今まで耐えてこられていましたわ。わたくしにできることがあるのでしたら、お力になりたい。ほかでもないわたくしの音楽が必要なのだとおっしゃるのならば、いつだって弾きますわ」
オレリアは自分に傍にいてほしいとアリスティドに掻き口説かれ、心を動かされた。
これほどまで誰かに切望されたことはない。なにより、アリスティドはオレリアという個人を尊重してくれる。そんな彼に惹かれずにはいられなかった。
アリスティドもまた、オレリアの欠けていた心を埋め、欲していたものを与えてくれたのだ。オレリアがアリスティドにそうしたように。
守ってくれると言われ、正直に嬉しい。けれど、自分も彼のためにしたいと思うことがある。たぶん、彼にしかわからないことだ。
ここに居並ぶ者たちはそれがなんなのか、明確には分からないけれど、彼が欲するものをオレリアが与えることができるのだと、理解することができた。
「ああ、君はアリスティドに熱を与えることができるんだね」
ニコラが呆然と呟く。
泰然としているように見えて、ずっと苦しんできたのだ。オレリアはそんなアリスティドの心情を理解し、寄り添おうとする。
「オレリア嬢は真実、アリスティドに必要な方だな」
レイモンがしみじみと頷く。
「もちろん、わたしは音楽だけじゃなく君自身がほしい」
そして、アリスティドと言えば熱烈のひと言に尽きる。立ち上がってオレリアの傍に近づき、その手を両手で握りしめ、ひたと見つめる。
商人たちとの交流によって外の価値観を知ることができた。
身分の違い。生まれた時から身に着いている常識。商人にはそれがない。アリスティドは幼いころにそれを嫌というほど見せつけられた。
だから乗り越えようと思った。できないことではないのだ。
セドリックもニコラも、こんなに熱意を持ったアリスティドは初めて見る。
「な? すごいだろう?」
オレリアと初めて会った際に見知っていたレイモンはしかし、彼をして表現するに困惑させられた。説明しづらいのだから、実際に見聞きするほかない。
そんなレイモンに視線を向けられたセドリックが頬を緩める。
「ああ、確かに。これは言葉では言い表せないね」
「良かった、本当に良かったよ」
ニコラが涙を眦に溜める。
壁際に控えた執事も目頭を拭っていた。




